2021年2月15日月曜日

最終兵器の目 天武天皇26

  『日本書紀』慶長版は

九月甲辰朔壬子天皇宴于舊宮安殿之庭是日皇太子以下至于忍壁皇子賜布各有差甲寅遣宮處王廣瀬王難波王竹田王弥努王於京及畿內各令挍人夫之兵戊午直廣肆都努朝臣牛飼爲東海使者直廣肆石川朝臣?(ノ虫:蟲)名爲東山使者直廣肆佐味朝臣少麻呂爲山陽使者直廣肆巨勢朝臣粟持爲山陰使者直廣參路真人迹見爲南海使者直廣肆佐伯宿祢廣足爲筑紫使者各判官一人史一人巡察國司郡司及百姓之消息是日詔曰凢諸歌男歌女笛吹者即傳已子孫令習歌笛辛酉天皇御大安殿 『喚王卿等於殿前以令博戲是日宮處王難波王竹田王三國真人友足縣犬養宿祢大侶大伴宿祢御行境部宿祢石積多朝臣品治采女朝臣竹羅藤原朝臣大嶋凢十人賜御衣袴壬戌皇太子以下及諸王卿幷四十八人賜羆皮山羊皮各有差癸亥遣髙麗國使人等還之丁夘爲天皇體不豫之三日誦經於大官大寺川原寺飛鳥寺因以稻納三寺各有差庚午化來髙麗人等賜祿各有差冬十月癸酉朔丙子百濟僧常輝封三十戸是僧壽百歲庚辰遣百濟僧法藏優婆塞益田金鍾於美濃令並白朮因以賜絁綿布壬午遣輕部朝臣足瀬髙田首新家荒田尾連麻呂於信濃令造行宮蓋擬幸束間温湯歟甲申以淨大肆泊瀬王直廣肆巨勢朝臣馬飼判官以下幷二十人任於畿內之役已丑伊勢王等亦向于東國因以賜衣袴是月說金剛般若經於宮中十一月癸夘朔甲辰儲用鐵一万斤送於周芳倊令所(是日)筑紫大掌(宰)請儲用物絁一百疋絲一百斤布三百端庸布四百常鐵一万斤箭竹二千連送下於筑紫丙午詔四方國曰大角小角鼓吹幡旗及弩?(扌尢:抜:抛)之類不應存私家咸收于郡家戊申幸白錦後菀丙寅法藏法師金鍾獻白朮煎是日爲天皇招魂之已巳新羅遣波弥(珍)飡金智祥大阿飡金健勳請政仍進調十二月壬申朔乙亥遣筑紫防人等飄蕩海??』中皆失衣裳則爲防人衣服以布四百五十端給下於筑紫辛巳自西發之地震丁亥絁綿布以施大官大寺僧等庚寅皇后命以王卿等五十五人賜朝服各一具

【九月の朔が甲辰の壬子の日に、天皇は、旧宮の御殿の庭で宴会をした。この日に、皇太子以下、忍壁皇子までに、布を与え各々差が有った。甲寅の日に、宮處王・廣瀬王・難波王・竹田王・彌努王を京及び畿内に派遣して、各々の労役の兵士を視察させた。戊午の日に、直廣肆の都努の朝臣の牛飼を東海の使者とした。直廣肆の石川の朝臣の蟲名を東山の使者とした。直廣肆の佐味の朝臣の少麻呂を山陽の使者とした。直廣肆の巨勢の朝臣の粟持を山陰の使者とした。直廣參の路の眞人の迹見を南海の使者とした。直廣肆の佐伯の宿禰の廣足を筑紫の使者とした。各々判官一人・書記一人がついて、国司・郡司及び百姓の消息を視察させた。この日に、「全ての諸々の歌を歌う男女・笛を吹く者は、すなわち自分の子孫に伝承して、歌や笛を習せなさい」と詔勅した。辛酉の日に、天皇は、大安殿にいて、王や公卿達を御殿の前に呼んで、賭けをさせた。この日に、宮處王・難波王・竹田王・三國の眞人の友足・縣犬養の宿禰の大侶・大伴の宿禰の御行・境部の宿禰の石積・多の朝臣の品治・采女の朝臣の竹羅・藤原の朝臣の大嶋、十人に、出仕する衣と袴を与えた。壬戌の日に、皇太子以下及び諸王と公卿達、併せて四十八人に、ヒグマの皮・山羊の皮を与えた。各々差が有った。癸亥の日に、高麗の国に派遣した使者達が帰った。丁卯の日に、天皇は病を患ったため、三日通して経を大官大寺・川原寺・飛鳥で読経させた。それで稲を三寺に奉納させた。各々差が有った。庚午の日に、帰化した高麗人達に、禄を与え各各差が有った。冬十月の朔が癸酉の丙子の日に、百済の僧の常輝に三十戸を封じた。この僧は、目出たいことに百歳だった。庚辰の日に、百済の僧の法藏・優婆塞と益田の直の金鍾を美濃に派遣して、オケラを煎じさせた。それで太絹・綿・布を与えた。壬午の日に、輕部の朝臣の足瀬・高田の首の新家・荒田尾の連の麻呂を信濃に派遣して、行宮を造らせた。おそらく、束間の温泉に行幸したいのだろう。甲申の日に、淨大肆の泊瀬王・直廣肆の巨勢の朝臣の馬飼・判官以下、併せて二十人を、畿内の労役に任せた。己丑の日に、伊勢王達が、また東国に向う。それで、衣と袴を与えた。この月に、金鋼般若経を宮中で説教させた。十一月の朔が癸卯の甲辰の日に、備蓄の鉄一萬斤を、周芳の總令の所に送った。この日に、筑紫の大宰が、備蓄の物、太絹百匹・絲・百斤・布三百端・物納の布四百常・鉄一萬斤・箭の竹二千連を求めた。筑紫に送り下した。丙午の日に、四方の国に「大きい角笛・小さい角笛・鼓・笛・軍旗、及び石弓・投擲の武器のなどは、私邸においてはならない。すべて郡家に收めなさい」と詔勅した。戊申の日に、白錦の裏庭に行幸した。丙寅の日に、法藏法師・金鍾がオケラを煎じて献上した。この日に、天皇の為に招魂祭を行った。己巳の日に、新羅が、波珍飡の金智祥・大阿飡の金健勳を派遣して、政治の援助を求めた。それで年貢を進上した。十二月の朔が壬申の乙亥の日に、筑紫に派遣した防人達が、海に飲み込まれて漂流し、皆、衣服を失った。それで防人の衣服の為に、布四百五十八端を、筑紫に供給した。辛巳の日に、西地震が発生した。丁亥の日に、太絹・綿・布を大官大寺の僧達に施した。庚寅の日に、皇后の命令で、王や公卿達五十五人に、出仕する服を各々一具を与えた。】とあり、標準陰暦と合致する。

ここで記述される、685年初出の壬申の乱の功臣が710年頃までに何人も死亡して、これらの人々の年齢が50代で活躍したと考えられ、壬申の乱が670年なら、700年代に死亡するのは長命で少なくなければ理に適わず、年齢が低い従者などは696年持統十年「以直廣壹授多臣品治并賜物褒美元從之功與堅守關事」、「以直大壹贈若櫻部朝臣五百瀬并賜賻物以顯元從之功」と壬申の功に入れていない。

また、大伴宿祢御行は『続日本紀』701年大宝元年に「大納言正廣參大伴宿祢御行薨・・・御行難破朝右大臣大紫長徳之子也」と父が難波朝の右大臣だが、同時期の阿倍朝臣御主人が703年大宝三年「右大臣從二位阿倍朝臣御主人薨」、732年天平四年「中納言從三位兼催造宮長官知河内和泉等國事阿倍朝臣廣庭薨右大臣從二位御主人之子也」、761年天平宝字五年「參議正四位下安倍朝臣嶋麻呂卒藤原朝右大臣從二位御主人之孫奈良朝中納言從三位廣庭之子也」と一代差29年で、標準的親子関係の年代差の20から30歳差に合致する。

御主人が686年朱鳥元年「直大參布勢朝臣御主人誄太政官事」と既に出世していて、675年天武天皇四年「小錦上大伴連御行爲大輔」が初出で30歳くらいで長徳も670年頃の死亡と考えられ、難波朝は650年代では不合理で、660年代まで続いたと考えられる。

ここでも、乙巳の変が664年に発生し、天皇が難波京で統治する蝦夷で、複数回の壬申の乱があったことを示している。

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