『日本書紀』慶長版は
「十月己夘朔詔曰更改諸氏之族姓作八色之姓以混天下万姓一曰真人二曰朝臣三(曰)宿祢四曰忌寸五曰道師六曰臣七曰連八曰稻置是日守山公路公髙橋公三國公當麻公茨城公丹比公猪名公坂田公羽田公息長公酒人公(山道公)十三氏賜姓曰真人辛己遣伊勢王等定諸國堺是日縣犬養連手繦爲大使川原連加尼爲小使遣耽羅壬辰逮于人定大地震舉國男女叫唱不知東西則山崩河?(涌:マ→尸)諸國郡官舍及百姓倉屋寺塔神社破壞之類不可勝數由是人民及六畜多死傷之時伊豫湯泉沒而不出土左國田菀五十餘万頃沒爲海古老曰若是地動未曽有也是夕有鳴聲如鼓聞于東方有人曰伊豆嶋西北二面自然増益三百餘丈更爲一嶋則如鼓音者神造是嶋響也甲午諸王卿等賜祿十一月戊申朔大三輪君大春日臣阿倍臣巨勢臣膳臣紀臣波多臣物部連平群臣雀部臣中臣連大宅臣栗田臣石川臣櫻井臣采女臣田中臣小墾田臣穗積臣山背臣鴨君小野臣川邊臣櫟井臣柿本臣輕部臣若櫻部臣岸田臣髙向臣完人臣來目臣犬上君上毛野君角臣星川臣多臣胸方君車持君綾君下道臣伊賀臣阿閇臣林臣波祢臣下毛野君佐味君道守臣大野君坂本臣池田君玉手臣笠臣凡五十二氏賜姓曰朝臣庚戌土左國司言大潮髙騰海水飄蕩由是運調舩多舩多投失焉戊辰昏時七星倶流東北則隕之庚午日沒時星隕東方大如瓮逮于戌(時)天文悉亂以星隕如雨是月有星孛于中央與昴星雙而行之及月盡失焉是年詔伊賀伊勢美濃尾張四國自今以後調年免役々年免調倭葛城下郡言有四足鶏亦丹波國氷上郡言有十二角犢十二月戊寅朔巳夘大伴連佐伯連阿曇連忌部連尾張連倉連中臣酒人連土師連掃部連境部連櫻井田部連伊福部連巫部連忍壁連草壁連三宅連兒部連手繦丹比連靫丹比連漆部連大湯人連若湯人連弓削連神服部連額田部連津守連縣犬養連稚犬養連玉祖連新田部連倭文連氷連凢海連山部連矢集連狹井連爪工連阿刀連茨田連田目連少子部連菟道連猪使連海犬養連間人連舂米連美濃連諸會臣布留連五十氏賜姓曰宿祢癸未大唐學生土師宿祢甥白猪史寶然及百濟役時沒大唐者猪使連子首筑紫三宅連得許傳新羅至則新羅遣大奈末金物儒送甥等於筑紫庚寅除死刑以下罪人皆咸赦焉」
【冬十月の己卯が朔の日に、「更に諸氏一族の姓を改めて、八種の姓を作って、天下の多くの姓を一緒にした。第一に、眞人。第二に、朝臣。第三に、宿禰。第四に、忌寸。第五に、道師。第六に、臣。第七に、連。第八に、稻置」と詔勅した。この日に、守山の公・路の公・高橋の公・三國の公・當麻の公・茨城の公・丹比の公・猪名の公・坂田の公・羽田の公・息長の公・酒人の公・山道の公、十三氏に、姓を与えて眞人と言った。辛巳の日に、伊勢王達を派遣して、諸国の境界を決めた。この日に、縣犬養の連の手繦を大使とし、川原の連の加尼を小使として、耽羅に派遣した。壬辰の日に、人が寝静まる十時ころになって、大地震が有った。国中で男女が悲鳴を上げて叫び、右往左往した。それで山が崩れ液状化が起こった。諸国の郡の官舍、及び百姓の納屋や家屋、寺塔や神社など、倒壊したものは数え切れなかった。これによって、人民及び家畜が、多数死傷した。その時に伊豫の温泉が沈み込んで湯が出なかった。土左の国の田畑五十萬余くらい、津波に沈んだ。古老が「このように地面が動いたことは、未だかってなかった」と言った。この夕に、太鼓のような音が鳴って、東方で聞こえた。ある人が 、「伊豆の嶋の西北に、二方面に、自然に地面が、三百丈余増えた。一つの嶋となった。すなわち太鼓の音の様だったのは、神がこの嶋を造った響だ。」と言った。甲午の日に、諸王や公卿達に禄を与えた。十一月の戊甲が朔の日に、大三輪の君・大春日の臣・阿倍の臣・巨勢の臣・膳の臣・紀の臣・波多の臣・物部の連・平群の臣・雀部の臣・中臣の連・大宅の臣・粟田の臣・石川の臣・櫻井の臣・采女の臣・田中の臣・小墾田の臣・穗積の臣・山背の臣・鴨の君・小野の臣・川邊の臣・櫟井の臣・柿本の臣・輕部の臣・若櫻部の臣・岸田の臣・高向の臣・宍人の臣・來目の臣・犬上の君・上毛野の君・角の臣・星川の臣・多の臣・胸方の君・車持の君・綾の君・下道の臣・伊賀の臣・阿閉の臣・林の臣・波彌の臣・下毛野の君・佐味の君・道守の臣・大野の君・坂本の臣・池田の君・玉手の臣・笠の臣・全て五十二氏に、姓を与えて朝臣という。庚戌の日に、土左の国司が「津波で海が高く持ち上がって、海水で船が流されて損壊した。このため、年貢を運ぶ船が、多数流されて失った」と言った。戊辰の日の日暮れ時に、七つの星が、一緒に東北へ流れて隕ちた。庚午の日の日沒の時に、星が、東の方角に隕ちた。大きさは甕の様だった。戌の時8時頃になって、天体が残らず乱れて、星が雨のように隕ちた。この月に、星が有って、中央が光り輝いていた。スバルが並んで行った。晦日(新月なので本来は1日)になって消えた。この年に、「伊賀・伊勢・美濃・尾張の、四国は、今以後、年貢の年に課役を免除し、課役の年に年貢を免除しなさい」と詔勅した。倭の葛城の下の郡が、「四足の鷄がいた」と言った。また丹波の国の氷上の郡が、「十二の角がある子牛がいた」と言った。十二月の朔が戊寅の己卯の日に、大伴の連・佐伯の連・阿曇の連・忌部の連・尾張の連・倉の連・中臣の酒人の連・土師の連・掃部の連・境部の連・櫻井の田部の連・伊福部の連・巫部の連・忍壁の連・草壁の連・三宅の連・兒部の連・手繦の丹比の連・靫の丹比の連・漆部の連・大湯人の連・若湯人の連・弓削の連・神服部の連・額田部の連・津守の連・縣犬養の連・稚犬養の連・玉祖の連・新田部の連・倭文の連・氷の連・凡海の連・山部の連・矢集の連・狹井の連・爪工の連・阿刀の連・茨田の連・田目の連・少子部の連・菟道の連・小治田の連・猪使の連・海犬養の連・間人の連・舂米の連・美濃矢集の連・諸會の臣・布留の連五十氏に、姓を与えて宿禰という。癸未の日に、大唐の學生の土師の宿禰の甥・白猪の史の寶然、及び百済の役の時に大唐で死んだ者の猪使の連の子首・筑紫の三宅の連の得許が、新羅の伝手で着いた。それで新羅は、大奈末の金物儒を派遣して、甥達を筑紫に送った。庚寅の日に、死刑を除いてそれ以外の罪人を、皆、残らず赦免した。】とあり、標準陰暦と合致すし、十月己卯朔は前月が大の月、十一月戊申朔は前月が小の月、十二月戊寅朔が前月が大の月と畿内での記述の可能性が高く、四国から伊豆に至るまでの東南海地震の様子が記述されている。
八色の姓の記事だが、『小野毛人墓誌』に「大錦上小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」と677年に死亡した小野毛人に朝臣姓があり、子が持統九年「賜擬遣新羅使直廣肆小野朝臣毛野」、文武四年「直廣參小野朝臣毛野爲大貳」、大宝二年「從四位下・・・小野朝臣毛野令參議朝政」、慶雲二年「以正四位上小野朝臣毛野爲中務卿」、慶雲四年「正四位上小野朝臣毛野・・・供奉殯宮事」、和銅元年「正四位上小野朝臣毛野・・・爲中納言」、和銅二年「正四位上小野朝臣毛野並從三位」、和銅七年「中納言從三位兼中務卿勲三等小野朝臣毛野薨小治田朝大徳冠妹子之孫小錦中毛人之子也」と記述される。
小野氏は遣唐使の時期の証明にも使用したが、毛人と毛野の死亡時期から、妹子は650年頃に死亡、677年死亡の毛人、714年死亡の毛野なら、650年でも早く、三代とも長寿すぎてしまうので、父の毛人死亡後、毛野の初授と思われる16番目の冠位直廣肆に間が有り毛人は早死にと考えられる。
684年に姓を変えたなら「天渟中原瀛眞人」自体に矛盾が生じ、天武天皇は諸王の地位で眞人だった人物が皇位に就いたのだから、もし大海皇子のこととすれば、671年以前に八色の姓を施行したことになる。
同じ事が682年天武天皇十一年の「筑紫大宰丹比眞人嶋等貢大鐘」と記述され、これらから、八色の姓は天智天皇が即位して間もなく669年頃に公布された可能性が高く、天渟中原瀛眞人は息長足日廣額の子なので、息長公で眞人で理に適う。
0 件のコメント:
コメントを投稿