『日本書紀』慶長版は
「十四年春正月丁未朔戊申百寮拜朝庭丁夘更改爵位之号仍増加階級明位二階淨位四階毎階有大麈幷十二階以前諸王巳上之位正位四階直位四階勤位四階務位四階追位四階進位四階毎階有大廣幷四十八階以前諸臣之位是日草壁皇子尊授淨廣壹位大津皇子授淨大貳位髙市皇子授淨廣貳位川嶋皇子忍壁皇子授淨大參位自此以下諸王諸臣等増加爵位各有差二月丁丑朔庚辰大唐人百濟人髙麗人幷百四十七人賜爵位三月丙午朔己未饗金物儒於筑紫即從筑紫歸之仍流著新羅人七口附物儒還之辛酉京職大夫直大參巨勢朝臣辛檀努卒壬申詔諸國毎家作佛舍乃置佛像及經以禮拜供養是月灰零於信濃國草木皆枯焉夏四月丙子朔己夘紀伊國司言牟婁湯泉沒而不出也丁亥祭廣瀬龍田神壬辰新羅人金主山歸之庚寅始請僧尼安居于宮中五月丙午朔庚戌射於南門天皇幸于飛鳥寺以珍寶奉於佛而禮敬甲子直大肆粟田朝臣真人讓位于父然勅不聽矣是日直大參當麻真人廣麻呂卒以壬申年之功贈直大壹位辛未髙向朝臣麻呂都努朝臣牛飼等至自新羅乃學問僧觀常雲觀從至之新羅王獻物馬二疋犬三頭鸚鵡二隻鵲二隻及種々寶物六月乙亥朔甲午大倭連葛城連凡川內連山背連難波連紀酒人連倭漢連河內漢連秦連大隅直書連幷十一氏賜姓曰忌寸秋七月乙巳朔乙丑祭廣瀬龍田神庚午勅定明位巳下進位已上之朝服色淨位已上並著朱華(朱華此云波泥孺)正位深紫直位浅紫勤位深緑務位淺緑追位深蒲萄進位淺蒲萄辛未詔曰東山道美濃以東東海道伊勢以東諸國有位人等並免課役八月甲戌朔乙酉天皇幸于淨土寺丙戌幸于川原寺施稻於衆僧癸巳遣耽羅使人等還之」
【十四年の春正の朔が丁未の戊申の日に、役人が、朝庭で拝礼した。丁卯の日に、さらに爵位の名を改めた。なお、階級を増加した。明位二階、淨位四階、階毎に大廣が有り併せて十二階。これまでは諸王以上の位だ。正位四階、直位四階、勤位四階、務位四階、追位四階、進位四階、階毎に大廣が有り併せて四十八階。これまでが臣下の位だ。この日に、草壁皇子の尊に淨廣壹の位を授けた。大津皇子に淨大貳の位を授けた。高市皇子に淨廣貳の位を授けた。川嶋皇子・忍壁皇子に淨大參の位を授けた。これ以下の諸王・臣下達に爵位を加増し各々差が有った。二月の朔が丁丑の庚辰の日に、大唐人・百済人・高麗人、併せて百四十七人に爵位を与えた。三月の朔が丙午の己未の日に、金物儒を筑紫で饗応して筑紫から帰った。それで、漂着した新羅人七人を、物儒に従わせて返した。辛酉の日に、京職の大夫の直大參の許勢の朝臣の辛檀努か死んだ。壬申の日に、「諸国の家毎に、佛舍を作って、それで佛像及び経典を置いて、礼拝や供養をしなさい」と詔勅した。この月に、灰が、信濃の国に降った。草木が皆枯れた。夏四月の朔が丙子の己卯の日に、紀伊の国司が、「牟婁の温泉が、埋まってしまって湯が出ない」と言った。丁亥の日に、廣瀬・龍田の神のお祭りを行った。壬辰の日に、新羅人の金主山が帰った。庚寅の日に、はじめて(?以前実行)僧尼に頼んで、宮中で長期の修行を行った。五月の朔が丙午の庚戌の日に、南門で矢を射る儀式を行った。天皇は、飛鳥寺に行幸して、珍宝を佛に奉納して礼をもって敬まった。甲子の日に、直大肆の粟田の朝臣の眞人が、位を父に讓った。しかし詔勅で許さなかった。この日に、直大參の當麻の眞人の廣麻呂が死んだ。壬申年の功績で、直大壹の位を贈った。辛未の日に、高向の朝臣の麻呂・都努の朝臣の牛飼達が、新羅から帰った。それで學問僧の觀常・靈觀、が一緒に着いた。新羅王の献上物は、馬二匹・犬三頭・オウム二隻・カササギ二隻及び種々の物が有った。六月の朔が乙亥の甲午の日に、大倭の連・葛城の連・凡川内の連・山背の連・難波の連・紀の酒人の連・倭の漢の連・河内の漢の連・秦の連・大隅の直・書の連、併せて十一氏に、姓を与えて忌寸と言った。秋七月の朔が乙巳の乙丑の日に、廣瀬・龍田の神のお祭りを行った。庚午の日に、詔勅して明位より下、進位より上の出仕するときに着用する服の色を決めた。淨位より上は、みな白みを帯びた紅色を着て正位は濃い紫、直位は薄い紫、勤位は濃い緑、務位は薄い緑、追位は濃い赤紫、進位は薄い赤紫を着る。辛未の日に、「東山道は美濃より東、東海道は伊勢より東の諸国の位が有る人達は、皆、課役を免除しなさい」と詔勅した。八月の朔が甲戌の乙酉の日に天皇は、淨土寺に行幸した。丙戌の日に、川原寺に行幸した。稲を僧達に施した。癸巳の日に、耽羅に派遣した使者達が帰った。】とあり、三月丙午朔は2月30日で、筑紫での饗応記事と筑紫から帰っているので畿内朝廷の説話にも関わらず、筑紫の暦で、それ以外は標準陰暦と合致する。
持統十年に「五月壬寅朔甲辰詔大錦上秦造綱手賜姓爲忌寸」と696年の記事に大錦上が記述されていて、この朔の日干支が5月2日、4月の晦日が29日と、都督府の暦で記述されて、都督府ではまだ古い冠位を使っていたか、690年代末に大化年間に冠位を変えた可能性がある。
『続日本紀』で始めて史書に記述された臣下が死亡するまでの間隔を検証すると、概ね20年で長くなると散位という無役の冠位を記述していて、50歳を過ぎると引退しているようだ。
例えば不比等の長男武智麻呂は705年に「正六位上・・藤原朝臣武智麻呂」、720年「右大臣正二位藤原朝臣不比等薨」と61歳で死んだ父の死亡15年前に初授して約30年後に57歳で死亡している。
そして724年「正六位下・・・藤原朝臣豊成」、737年「武智麻呂贈太政大臣」、とその長男の豊成は父の死亡の14年前に初授が有って、765年「右大臣從一位藤原朝臣豊成薨」と初授から約40年後に62歳で死亡している。
そして、武智麻呂の次男の押勝は734年「正六位下藤原朝臣仲麻呂並從五位下」、764年59歳「軍士石村村主石楯斬押勝傳首京師」と30歳に初加増、790年に死亡した佐伯宿祢今毛人も死亡時80歳で711年景雲二年に「賀正之宴有詔特侍殿上」と登用されていることから、一人前とみられるのはやはり20歳位で、初授が20代が一般的で、20年くらい務めて50歳前後で死亡して、子は父が40代で朝廷につかえている。
すなわち、これは『日本書紀』の小野妹子達も同じで、607年の訪唐は有り得ず、640年代が正しい時期だと証明される。
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