『日本書紀』慶長版は
「五月庚子朔戊申多紀皇女等至自伊勢是日侍醫百濟人億仁病之臨死則授勤大壹位仍封一百戸癸丒勅之大官大寺封七百戸乃納税三十万束丙辰宮人等増加爵位癸亥天皇體不安因以於川原寺說藥師經安居于宮中戊辰饗金智祥等筑紫賜祿各有差即從筑紫退之是月勅遣左右大舍人等掃清諸寺堂塔則大赦天下囚獄已空六月巳巳朔槻本村主勝麻呂賜姓曰連仍加勤大壹位封二十戸庚午工匠陰陽師侍醫大唐學生及一二官人幷三十四人授爵位乙亥選諸司人等有功二十八人増加爵位戊寅卜天皇病祟草薙劔即日送置于尾張國熱田社庚辰雩之甲申遣伊勢王及官人等於飛鳥寺勅衆僧曰近者朕身不和願頼三寶之威以以身體欲得安和是以僧正僧都及衆僧應誓願則奉珍寶於三寶是日三綱律師及四寺和上知事幷現有師位僧等施御衣御被各一具丁亥勅遣百官人等於川原寺爲燃燈供養仍大齋之悔過也丙申法忍僧義照僧爲養老各封三十戸庚寅名張厨司災之秋七月乙亥朔庚子勅更男夫著脛裳婦女垂髮于背猶如故是日僧正僧都等參赴宮中而悔過矣辛丑詔諸國大解除壬寅半減天下之調仍悉免徭役癸夘奉幣於居紀伊國々懸神飛鳥四社住吉大神丙午請一百僧讀金光明經於宮中戊申雷光南方而一大鳴則天災於民部省藏庸舍屋或曰忍壁皇子宮失火延焼民部省癸丒勅曰天下之事不問大小悉啓于皇后及皇太子是日大赦之甲寅祭廣瀬龍田神丁巳詔曰天下百姓由貧乏而?(イ貳:貸)稻及貨財者乙酉年十二月三十日以前不問公私皆免原戊午改元曰朱鳥元年仍名宮曰飛鳥淨御原宮丙寅選淨行者七十人以出家乃設齋於宮中御窟院是月諸王臣等爲天皇造觀音像則說觀世音經於大官大寺」
【五月の朔が庚子の戊申の日に、多紀皇女達が伊勢から帰った。この日に、侍医の百済人の億仁が、病気で死にかけていた。それで勤大壹の位を授け百戸を封じた。癸丑の日に、詔勅して、大官大寺に、七百戸を封じて、税から三十萬束を奉納した。丙辰の日に、官僚達に爵位を加増した。癸亥の日に、天皇、体調をくずした。それで、川原寺で、藥師経を説教した。宮中で長期の修行をさせた。戊辰の日に、金智祥達を筑紫で饗応した。禄を与え各々差が有った。それで筑紫から去った。この月に、詔勅で近習の宿衛を派遣して、諸寺の堂や塔を掃き清めさせた。それで天下に大赦を行った。監獄には誰もいなくなった。六月の己巳が朔の日に、槻本の村主の勝麻呂に姓を与えて連という。それで勤大壹の位をに加増して、二十戸を封じた。庚午の日に、大工・陰陽師・侍医・大唐の學生、及び一・二人の官僚、併せて三十四人に、爵位を授けた。乙亥の日に、役人達の功績が有った二十八人を選んで、爵位を加増した。戊寅の日に、天皇の病気を占ったら、草薙の剱の祟りとでた。その日に、尾張の国の熱田の社に送って置いた。庚辰の日に、雨乞いした。甲申の日に、伊勢王及び役人達を飛鳥寺に派遣して、僧達に詔勅して、「近頃、私の状態が良くない。三宝の力によって、治してもらいたい。それで、僧正・僧都及び僧達よ、請願しなさい」と詔勅した。それで珍しい宝物を奉納した。この日に、三綱の律師及び四寺の和上・知事、併せて現在、師の位が有る僧達に、法衣・法被各々一具を施した。丁亥の日に、詔勅して、役人達を川原寺に派遣して、灯をともして供養した。それで、大法会を開いて悔い改めた。丙申の日に、僧の法忍・僧の義照に、老後を養うために、各々三十戸を封じた。庚寅の日に、名張の厨の司に火災が有った。秋七月の朔が己亥の庚子の日に、「また男は脛当てを着け、婦女は背中まで髪を垂らして、昔からのようにしなさい」と詔勅した。この日に、僧正・僧都達は、宮中に赴いて、改悔の儀式を行った。辛丑の日に、諸国に詔勅して大規模なお祓いをした。壬寅の日に、天下の年貢を半減した。なお、残らず労役を免除した。癸卯の日に、供え物を紀伊の国に居る國懸の神・飛鳥の四社・住吉の大神に奉納した。丙午の日に、百人の僧に頼んで、金光明経を宮中で読経させた。戊申の日に、雷が、南方で光って、一回大きな雷鳴が起こった。それで民部省の物納の倉庫に火災が起こった。或人が、「忍壁皇子の宮から失火して延焼で、民部省を焼いた」と言った。癸丑の日に、「天下の事の、大小を問わず、残らず皇后及び皇太子に教えなさい」と詔勅した。この日に、大赦を行った。甲寅の日に、廣瀬・龍田の神のお祭りを行った。丁巳の日に、「天下の百姓が貧しく生活に困っているので、稲と農具を貸している者は、乙酉の年の十二月三十日以前の負債は、公私と問わず、皆、免除しなさい」と詔勅した。戊午の日に、元号を改めて朱鳥元年と言った。それで宮を名付けて飛鳥淨御原宮と言った。丙寅の日に、仏の教えに従っている者七十人を選んで、出家させた。それで宮中の仏殿で法会を行った。この月に、諸王と臣下が、天皇の為に、観世音像を造った。それで観世音経を大官大寺で説教した。】とあり、標準陰暦と合致する。
飛鳥淨御原宮命名記事は朱鳥元号と全く関係が見えず、『小野毛人墓誌』に「飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」と677年の墓誌に飛鳥浄御原宮治天下天皇と、無い宮の天皇が記述され、飛鳥浄御原宮命名説話は677年より前に命名されていることが解る。
すると、飛鳥浄御原宮命名説話の実際の時期は、これまで見てきたように、670年の壬申の乱は大皇弟と大臣達の反乱で天智天皇が勝利して国名を日本にした戦いっだったので、この時の勝利宣言の時、672年天武天皇元年「自嶋宮移岡本宮・・・營宮室於岡本宮南即冬遷以居焉是謂飛鳥淨御原宮」が第一候補であるが、それなら、このときにこの記事を記述すればよいのに、別の場所に置いているのはよくわからない。
改元記事に付随するのなら、朱雀の684年は『小野毛人墓誌』に合致せず、652年白雉改元は651年12月の「天皇從於大郡遷居新宮號曰難波長柄豐碕宮」と宮命名の記事があり、白鳳改元の661年斉明天皇七年の「天皇遷居于朝倉橘廣庭宮是時斮除朝倉社木而作此宮之故神忿壌殿亦見宮中鬼火由是大舎人及諸近侍病死者衆」がある。
朝倉は筑後の明日香と呼ばれる土地にあり、お祓いをして清めた宮で明日香の清(め)原は良く合致し、暦に九州の暦や都督府の暦が頻出し、饗応が九州で行われている意味がよく理解でき、すでに長く住んで15年たって、今にも死にそうな天皇のために宮の名を付け、既に不明の宮の名を付けた代名詞の宮を変えて飛鳥浄御原宮天皇と呼ぶのは理解できない。
もし、代名詞を変えたのなら、どこかにその宮の名が残るはずである。
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