2021年2月8日月曜日

最終兵器の目 天武天皇23

  『日本書紀』慶長版は

「十三年春正月甲申朔庚子三野縣主內藏衣縫造二氏賜姓曰連丙午天皇御于東庭群卿侍之時召能射人及侏儒左右舍人等射之二月癸丑朔丙子饗金主山於筑紫庚辰遣淨廣肆廣瀬王小錦中大伴連安麻呂及判官錄事陰陽師工匠等於畿內令視占應都之地是日遣三野王小錦下采女臣筑羅等於信濃令看地形將都是地歟三月癸未朔庚寅吉野人宇閇直弓貢白海石榴辛夘天皇巡行於京師而定宮室之地乙巳金主山歸國夏四月壬子朔丙辰徒罪以下皆免之甲子祭廣瀬大忌神龍田風神辛未小錦下髙向臣麻呂爲大使小山下都努臣牛甘爲小使遣新羅閏四月壬午朔丙戌詔曰來年九月必閲之因以教百寮之進止威儀又詔曰几政要者軍事也是以文武官諸人務習用兵及乗馬則馬兵幷當身裝束之物務具儲足其有馬者爲騎士無馬者爲步卒並當試練以勿鄣於聚會若忤詔旨有不便馬兵亦裝束有闕者親王以下逮于諸臣並罰之大山位以下者可罰々之可杖々之其務習以能得業者若雖死罪則咸二等唯恃已才以故犯者不在赦例又詔曰男女並衣服者有襴無襴及結紐長紐任意服之其會集之日着襴衣而著長紐唯男子者有圭冠冠而著括緖褌女年四十以上髮之結不結及乗馬縱横並任意也別巫祝之類不在結髮之例壬辰三野王等進信濃國之啚丁酉設齋于宮中因以赦有罪舍人等乙巳坐飛鳥寺僧福揚以入獄庚戌僧福揚自刺頸而死五月辛亥朔甲子化來百濟僧尼及俗人男女幷二十三人皆安置于武藏國戊寅三輪引田君難波麻呂爲大使桑原連人足爲小使遣髙麗六月辛巳朔甲申雩之秋七月庚戌朔癸丒幸于廣瀬戊午祭廣瀬龍田神壬申彗星出于西北長丈餘冬」

【十三年の春正月の朔が甲申の庚子の日に、三野の縣主・内藏の衣縫の造の二氏に、姓を与えて連という。丙午の日に、天皇は、東の庭にいた。公卿が近くにいた。その時に、上手く弓を射る人及び侏儒と・側近くに使える護衛達を呼んで弓を射させた。二月の朔が癸丑の丙子の日に、金主山を筑紫で饗応した。庚辰の日に、淨廣肆の廣瀬王・小錦中の大伴の連の安麻呂、及び判官・書記・陰陽師・技術者たちを畿内に派遣して、都をつくる適地を視察させ占わせた。この日に、三野王・小錦下の采女の臣の筑羅達を信濃に派遣して、地形を視察させた。この土地に都ろうとしたのだろうか。三月の朔が癸未の庚寅の日に、吉野の人の宇閉の直の弓が、白い椿を貢上した。辛卯の日に、天皇は、京師を巡行して、宮室の土地を定めた。乙巳の日に、金主山が国に帰った。夏四月の朔が壬子の丙辰の日に、労役以下を皆、赦免した。甲子の日に、廣瀬の大忌の神・龍田の風の神を祭った。辛未の日に、小錦下の高向の臣の麻呂を大使として、小山下の都努の臣の牛甘を小使として、新羅に派遣した。閏四月の朔が壬午の丙戌の日に、「来年の九月に、必ず調査する。それで役人の進退・規律を教えなさい」と詔勅した。また「全ての政治の要は軍事だ。それで、文武官の人々も、いつも兵器の持ち歩いて、乗馬を習いなさい。それで馬・武器、併せて身に着ける裝束の物を、いつも良く調べて足りなかったら備えに足しなさい。それで馬が有る者を騎士としなさい。馬が無い者を歩兵としなさい。さらによく訓練して、集まるのに支障が有ってはならない。もし詔勅の趣旨を違えて、馬や武器に不備が有って、また裝束に足りないものが有ったら、親王以下、諸臣にいたるまで、みな罰する。大山位以下は、処罰するべきは処罰し、杖打ちに相当すれば杖打ちに処する。それでいつも訓練して優秀な者は、もし死罪となっても、二等を減刑する。ただし自分の能力を使って犯した者のみは、赦さない」と詔勅した。また 又「男女ともに衣服は、裾付きのあるなし及び結い紐や長紐の使用も、自由に着なさい。それで集まる日は、裾付きの衣を着て長紐をつけなさい。ただし男子のみは、圭冠(はしはこうぶり)が有れば着けて、紐で括った袴を着なさい。女の年齢四十以上は、髮を結っても結わなくとも、及び馬に乗る向き、どれも自由でよい。別に巫女などは、髮を結わなくても良い」と詔勅した。壬辰の日に、三野王達が、信濃の国の地図を進上した。丁酉の日に、宮中で法会を開いた。それで罪人の下男たちを赦免した。乙巳の日に、飛鳥寺の僧の福楊を牢獄に入れた。庚戌の日に、僧の福楊が、自ら頚を刺して死んだ。五月の朔が辛亥の甲子の日に、帰化した百済の僧尼及び俗人の男女併せて二十三人が、皆で武藏の国に移り住んだ。戊寅の日に、三輪の引田君の難波麻呂を大使とし、桑原の連の人足を小使として、高麗に派遣した。六月の朔が辛巳の甲申の日に、雨乞いした。秋七月の朔が庚戌の癸丑の日に、廣瀬に行幸した。戊午の日に、廣瀬・龍田の神を祭った。壬申の日に、彗星が西北に出た。長さ一丈余だった。】とあり、正月甲申朔は1月2日で前月は小の月、四月壬子朔は3月30日、五月辛亥朔は閏4月30日、それ以外は標準陰暦と合致する。

閏四月壬午朔は前月が小の月、六月辛巳朔も前月が小の月、秋七月庚戌朔も前月が小の月で都督府や筑紫の暦で、饗応も筑紫で行い、飛鳥寺も筑紫の明日香にある寺の可能性が有る。

神武天皇が高尾張で土蜘蛛と戦ったが「髙尾張邑有土蜘蛛其爲人也身短而手足長與侏儒相類皇」と土蜘蛛は身長が低くて侏儒のようと記述し、神功皇后が「轉至山門縣則誅土蜘蛛田油津媛」と筑後の山門に土蜘蛛の田油津媛すなわち侏儒の田油津媛を誅殺したが、築後には侏儒の土蜘蛛の一族がまだ残り、この天武紀に記述されていて、筑紫での出来事と理解できる。

高向臣麻呂は天武天皇十年に12番目の地位の小錦下位授与が初出で天武天皇十四年新羅から帰国後全く記述されず、『続日本紀』に大宝二年に同じく12番目の地位の「從四位上高向朝臣麻呂」と地位が変化せず、慶雲二年に「正四位下・・・高向朝臣麻呂」、和銅元年「正四位上高向朝臣麻呂從三位・・・從三位高向朝臣麻呂爲攝津大夫」、和銅元年「攝津大夫從三位高向朝臣麻呂薨」と順調に数年おきに出世して、天武10年と大宝2年が同時期と考えられる。

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