2021年2月1日月曜日

最終兵器の目 天武天皇20

  『日本書紀』慶長版は

十一年春正月乙未朔癸夘大山上舍人連糠?(ノ虫:蟲)授小錦下位乙己饗金忠平於筑紫壬子氷上夫人薨于宮中癸丑地動辛酉葬氷上夫人於赤穗二月甲子朔乙亥金忠平歸國是月小錦下舍人連糠?(ノ虫:蟲)卒以壬申年之功贈大錦上位三月甲午朔命小紫三野王及宮內官大夫等遣于新城令見其地形仍將都矣乙未陸奧國蝦夷二十二人賜爵位庚子地震丙午命境部連石積等更肇俾造新字一部三十四卷己酉幸于新城辛酉詔曰親王以下百寮諸人自今巳後位冠及襅褶脛裳莫着亦膳夫采女等之等之手繦肩巾並莫服是日詔曰親王以下至于諸臣被給食封皆止之更返於公是月土師[??喚王卿等於殿前以令博戲是・・・・下方に重複 誤入・・・・・・紫防人等飄蕩海??]連真敷卒以壬申年功贈大錦上位夏四月癸亥朔辛未祭廣瀬龍田神癸未筑紫大宰丹比真人嶋等貢大鐘甲申越蝦夷伊髙岐那等請俘人七十戸爲一郡乃聽之乙酉詔曰自今以後男女悉結髮十二月三十日以前結訖之唯結髮之日亦待勅旨婦女乗馬如男夫其起于是日也五月癸巳朔甲辰倭漢直等賜姓曰連戊申遣髙麗大使佐伯連廣足小使小墾田臣麻呂奏使肯(?旨)於御所己未倭漢直等男女悉參赴之悅賜姓而拜朝六月壬戌朔髙麗王遣下部助有卦婁毛切大古昴加貢方物則新羅遣大那末金釋起送髙麗使人於筑紫丁卯男夫始結髮仍著漆紗冠癸酉五位殖栗王卒秋七月壬辰朔甲午隼人多來貢方物是日大隅隼人與阿多隼人相撲於朝廷大隅隼人勝之庚子小錦中膳臣摩漏病遣草壁皇子尊髙市皇子而訊病壬寅祭廣瀬龍田神戊申地震己酉膳臣摩漏卒天皇驚之大哀壬子摩漏臣以壬申年之功贈大紫位及祿更皇后賜物亦准官賜丙辰多祢人掖玖人阿麻弥人賜祿各有差戊午饗隼人等於飛鳥寺西發種々樂仍賜祿各有差道俗悉見之是日信濃國吉備國並言霜降亦大風五穀不登

【十一年の春正月の朔が乙未の癸卯の日に、大山上の舍人の連の糠蟲に、小錦下の位を授けた。乙巳の日に、金忠平を筑紫で饗応した。壬子の日に、氷上の夫人が、宮中で薨じた。癸丑の日に、地震が有った。辛酉の日に、氷上の夫人を赤穗に葬った。二月の朔が甲子の乙亥の日に、金忠平が、国に帰った。この月に、小錦下の舍人の連の糠蟲が死んだ。壬申の年の功績で、大錦上の位を贈った。三月の甲午が朔の日に、小紫の三野王及び宮内官の高官達に命じて、新城に派遣して、その地形を見分させた。それで都を造ろうとした。乙未の日に、陸奧の国の蝦夷二十二人に、爵位を与えた。庚子の日に、地震が有った。丙午の日に、境部の連の石積達に命じて、さらに新字一部四十四卷を造り始めさせた。己酉の日に、新城に行幸した。辛酉の日に、「親王以下、役人達は、今以後、位冠及びたすき・あわせ・すねあて、を着用してはならない。また調理人・下級の女官達のたすきや肩掛けを一緒に着用してはならない」と詔勅した。この日に、「親王以下、諸臣までに、与えた封戸はすべて止めて、国に返しなさい」と詔勅した。この月に、土師の連の眞敷が死んだ。壬申年の功績で、大錦上の位を贈った。夏四月の朔が癸亥の辛未の日に、廣瀬・龍田の神のお祭りを行った。癸未の日に、筑紫の大宰の丹比の眞人の嶋達が、大きな鍾を貢上した。甲申の日に、越の蝦夷の伊高岐那達が、捕虜七十戸を一郡としたいと願い出た。それで許した。乙酉の日に、「今以後、男女残らず髮を結いなさい。十二月三十日以前に、結い終わりなさい。ただし髮結いした日は、また詔勅の趣旨のとおりにしなさい」と詔勅した。婦人が馬に乗ったり男のような振る舞いは、この日から起こった。五月の朔が癸巳の甲辰の日に、倭の漢の直達に、姓を与えて連と言った。戊申の日に、高麗に派遣した大使の佐伯の連の廣足・小使の小墾田の臣の麻呂達が、使いの内容を御所に奏上した。己未の日に、倭の漢の直達の男女が残らず出かけてきて、姓をもらったことを悦んで朝廷に礼拝した。六月の壬戌が朔の日に、高麗の王が、下部の助有の卦婁毛切・大古の昴加を派遣して、産品を貢上した。それで新羅が、大那末の金釋起を派遣して、高麗の使者を筑紫に送った。丁卯の日に、男性が髮結を始めた。それで漆紗冠を着けた。癸酉の日に、五位の殖栗王が死んだ。秋七月の朔が壬辰の甲午の日に、隼人が、多数遣ってきて、産品を貢上した。この日に、大隅の隼人と阿多の隼人が、朝庭で相撲を取った。大隅の隼人が勝った。庚子の日に、小錦中の膳の臣の摩漏が病気した。草壁皇子の尊・高市皇子を派遣して、病状を聞かせた。壬寅の日に、廣瀬・龍田の神をお祭りした。戊申の日に、地震が有った。己酉の日に、膳の臣の摩漏が死んだ。天皇は、驚いて大変哀しんだ。壬子の日に、摩漏の臣に、壬申年の功績で、大紫の位及び禄を贈った。また、皇后の物を与え、役所からの贈呈とした。丙辰の日に、多禰人・掖玖人・阿麻彌人に封禄を与えた。各々差が有った。戊午の日に、隼人達を飛鳥寺の西で饗応した。種々の楽器の音色を発した。なお、封禄を与え各々差が有った。僧も俗人も残らず観た。この日に、信濃の国・吉備の国が、一緒に、「霜が降って、さらに大風が吹いて、五穀が実らなかった」と言った。】とあり、正月乙未朔は正しいが前日は29日、二月甲子朔は1月30日、三月甲午朔は正しいが前日があ29日、四月癸亥朔は3月30日、五月癸巳朔は正しいが前日が29日、六月壬戌朔も正しいが前日が29日、七月壬辰朔は標準陰暦と合致する。

この、1月から6月までの朔の並びは708年であればよく合致し、文武天皇が崩じたの翌年である。

膳臣摩漏・土師連眞敷はこれが初出で、舍人連糠虫は十年12月が初出で、前年の草壁皇子の立太子とその年の糠虫の賜姓と『新唐書』の「子天武立死子總持立」の總持天皇即位は兄弟で争った皇位継承の可能性が有り、總持朝廷が分裂した可能性がある。

隼人の産品貢上は『続日本紀』に702年「征薩摩隼人時」と薩摩の隼人を攻撃し、709年に「薩摩隼人郡司已下一百八十八人入朝」と薩摩隼人が降伏していて、阿多の隼人は神武天皇の東征の立役者で、隼人は斉明元年に「蝦夷隼人率衆内屬」と朝廷の臣下となっており、總持朝廷側の説話と考えられ、元明朝廷との攻防の戦いの一端と考えられる。

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