2022年7月6日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』景行天皇類書4

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀』は続けて「日本景武尊平東夷還参未参薨於尾張國矣初取兩道入姫皇女為妃生稲依別王次足仲彦尊次布忍入姫命次稚武王又吉備武彦女吉備穴武媛為妃生武(?)王與十城別王又穂積氏女忍山宿祢女弟橘媛生稚武彦王五十二年夏五月甲辰朔辛未皇后播磨大郎姬命薨秋七月八坂入姬命立為皇后五十八年春二月辛丑朔辛亥幸近江國居志賀三歳是謂髙穴穂宮六十年冬十一月乙酉朔辛卯天皇崩於穴穗宮年百六歳後帝二年葬於山邊上陵夫天皇(?)生男女揔八十一皇子之中男五十五女々二十六就中隥留六皇子男五女一以外皆封州縣矣皇子五十皇女二十六合七十六各封州縣不入國史稚倭根子命大酢別命吉備吉彦命武國彦疑別命筑子水間君祖神櫛別命讃岐國造祖稻背入彦命播磨別祖豐國別命吉備別祖國背別命水間君祖忍之別命日向襲津彦命奄智君祖國乳別命伊予宇和別祖豐門入彦命大田別祖五十狹城入彦命三河長谷部直祖稚屋彦命彦人別大兄命武國皇別命伊予御城別添御杖君直稚彦尊天帶根命目鯉部君祖大曾色別命五十河彦命讃岐直五十河別祖石社別命大稻背別命御杖君祖武押別命豐門別命三島火氷間各奄智首壯子首栗首筑紫火別君祖不知來入彦命曾能目別命十市入彦命襲小橋別命三田小橋別祖色己焦別命熊津彦命息前彦人文兄水城命奄智白幣造祖熊忍津彦命日向穴穗別祖櫛見皇命讃岐國造祖武弟別命立知備別祖草木命日向君祖  稚根子皇子命兄彦命大分穴穗御(?)別海部直三野之宇(?)須別等祖宮道別命手事別命大我門別命豐日別命玉川宿祢命豐手別命倭宿祢命三川大伴部直祖豐津彦命五百木根命弟引命 手冝都君祖大焦別命五十切彦命伊勢刑巾君二川三保君祖櫛角別命茨田連祖定皇子六之中男五女一兒大碓命守君等祖次小碓命追号日本武尊次豐國別命日向諸縣君祖次稚足彦尊五百城入彦尊次五百野姬皇女命伊勢天照太神齋祠巳上五十皇子其二十六皇女不在入限」、訳は省略した。

纏向宮は桃等の種の年代測定で3世紀初頭まで続いたことが証明されていて、128年の遷都は師木玉垣朝の分裂と考えられ、志賀高穴穗天皇に『日本書紀』では後継者の存在がなく、『舊事本紀』も志賀高穴穗天皇と思われる人物淡夜別に子を記述しないが、『古事記』には和訶奴氣王が存在し、穴穗宮妃の穂積臣の祖の忍山垂根の娘弟財郎女、その兄弟の大多牟坂、その叔父多遅麻と引き継いで、皇位は山無媛へと繋がり、五十琴彦の纏向朝廷を滅ぼしたようだ。

そして、『舊事本紀』で、師木朝廷の五百城入彦は尾綱根・尾綱真若刀婢・金田屋野姫兄弟に皇位を奪われて、子の品陀真若王の娘は(輕島明宮)天皇尾綱根の妃となって皇位が継承され、さらに、葛城襲津彦に皇位を奪われたと思われる。

天皇の璽の足玉を継承した雌鳥の死亡が仁徳40年になっているが、淡海王朝すなわち秦国は『晋書』まで記述され、『宋書』には記述されず、420年頃まで継続した可能性が高く、410年代に高句麗や百濟が宋の臣下になっていて、この時、韓地の宗主国の秦が滅亡していたと考えると理に適う。

五一年秋八月己酉朔壬子」の「立稚足彦尊爲皇太子」は正しい朔だが、この頃は中国の元号で変換している為で、西暦152年から51年後の202年に倭奴国が都を変えた王を記述していると思われ、卑弥呼と、男弟王やその子が香椎宮で統治した時代である。

『三国史記』「阿達羅尼師今二十年夏五月倭女王卑彌乎遣使來聘」は215年奈解尼師今二十年の挿入間違いと思われ、奈解尼師今の治世には倭の来襲が無く、死後の助賁尼師今の時、232年に「三年夏四月倭人猝至圍金城王親出戰賊潰走遣輕騎追擊之殺獲一千餘級」、233年に「四年夏五月倭兵寇東邊秋七月伊飡于老與倭人戰沙道乘風縱火焚舟賊赴水死盡」と倭が負け続けた。これは恐らく、新羅・新羅の友好国秦の配下の狗奴國との両面作戦で劣勢になり、239年に魏の援助で優勢になり、新羅侵攻を止め、男弟王かその子が即位すると、また、249年に「沾解尼師今三年夏四月倭人殺舒弗邯于老」と戦い、「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還」と壹與が即位後に再度魏の助けを得て、287年まで、新羅と闘う必要が無かったようだ。

『三国史記』も『日本書紀』と同様に晦日が朔の暦と朔日が朔の暦を混在していて、複数の資料を寄せ集めた史書で、挿入場所を間違えている可能性が高い。

0 件のコメント:

コメントを投稿