『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「然而還上之時山神河神及穴戸神皆言向和而参上即入坐出雲國欲殺其出雲建而到即結友故竊以赤檮作詐刀爲御佩共沐肥河尓倭建命自河先上取佩出雲建之解置横刀而詔爲易刀故後出雲建自河上而佩倭建命之詐刀於是倭建誹(誂)云伊奢合刀尓各抜其刀之時出雲建不得抜誰(詐)刀即倭建命抜其刀而打殺出雲建尓御歌曰夜都米佐須伊豆毛多祁流賀波祁流多知都豆良佐波麻岐佐味那志尓阿波祁故如此撥治参上覆奏尓天皇亦頻詔倭建命言向和平東方十二道之荒夫琉神及摩都楼波奴人等而副吉備臣等之祖名御鋤友耳建日子而遣之時給比比羅木之八尋矛故受命羅(罷)行之時参入伊勢大御神宮拝神朝廷即白其姨倭比賣命者天皇既所以思吾死乎何撃遣西方之悪人等而返参上來之間未經幾時不賜軍衆今更平遣東方十二道之悪人等因此思惟猶所思者(看)吾既死焉患泣罷時倭比賣命賜草那藝剣(劔)亦賜御嚢詔而若有急事解茲嚢口故到尾張國入坐尾張國造之祖美夜受比賣之家乃雖思將婚亦思還上之時將婚期定而幸于東國」、【それで還った時、山の神、河の神、及び、穴戸の神を、皆、服従させて參上した。即ち出雲國に入って、出雲建を殺そうと思って、友となった。それで、密かに赤梼で、偽刀を作り、身に着けて、共に肥河で沐浴をした。そこで、倭建は、河から先に上って、出雲建が解いて置いた横刀を身につけて、「刀を取り換えよう。」と言った。それで、後で出雲建が河から上って、倭建の偽刀を帯びた。そこで倭建が、「いざ刀を合そう。」と挑んで言った。そこで、其々の刀を拔いた時、出雲建は偽刀を拔くことが出来なかった。それで倭建は刀を拔いて出雲建を打ち殺した。そこで歌(略)をよんだ。それで、このように打ち払って復命した。天皇は、亦、重ねて倭建に、「東の方十二道のあらぶる神、また、まつろわぬ者達を屈伏して平定しろ。」と言って、吉備臣の祖の、御鋤友耳建日子を一緒に派遣した時、比比羅木の八尋矛を与えた。それで、命を受けて行った時、伊勢の大神の宮に參り、神の朝廷を拜んで、姨の倭比賣に、「天皇は既に私に死ねと思うのか、何故か西方の惡人等を撃つよう派遣して、返ってから、まだ幾時も経ずに、軍勢も無しに、今更に、東の方十二道の惡人達を平げるよう派遣した。このため、私にもう死ねと思っているに違いない。」と言って、うれいた。出発する時に、倭比賣は草那藝劒を渡し、亦、嚢を与えて、「もし急の事が有ったら、嚢の口を解きなさい。」と言った。それで、尾張國について、尾張國造の祖の美夜受比賣の家に入った。乃ち、召そうと思ったが、還る時に召そうと思って、約束して東國に行き、山河の荒ぶる神、及、屈服しない人達を服従させた。】と訳した。
この説話は、倭比賣が大神を伊勢に祀ったのが垂仁二五年で、出雲の神寶の検校が二六年とあり、景行四十年の記事では時代背景に矛盾するが、纏向珠城四十年・垂仁四十年なら理に適う。
また、『日本書紀』では出雲振根が飯入根を全く同じ方法で殺害し、武諸隅が関係した事件だったので、倭建の伝説に組み込まれた可能性が高く、『日本書紀』崇神60年「武諸隅而使獻當是時出雲臣之遠祖出雲振根主于神寶」と神寶を手に入れ、分朝廷を開いたようだ。
東方十二道を平定したのは、『舊事本紀』「上毛野國造瑞籬朝皇子豊城入彦命孫彦狹嶋命初治平東方十二國為封」と彦狹嶋で、『日本書紀』にも「彦狹嶋王拜東山道十五國都督」、「詔御諸別王曰汝父彦狹嶋王不得向任所而早薨故汝専領東國」と景行五六年に彦狹嶋が東国平定後に早薨し、まさしく、この説話どおりである。
彦狹嶋の祖父豊城入彦の母方の祖父が荒河戸畔で、荒河戸畔は建諸隅・倭建を襲名したと考えられ、彦狹嶋も襲名した倭建と考えて良く、皇太子彦狹嶋の死の翌年景行五七年に彦狹嶋の死で皇太子になった五百木之入日子が天皇意富多牟和氣を追い出し、師木朝廷を奪い、意富多牟和氣は淡海に遷り、大陀牟夜別が皇太子になったと思われる。
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