『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「大帯日子游斯呂和氣天皇坐纏向之日代宮治天下也此天皇娶吉備臣等之祖若建吉備津日子之女名針間之伊那毗能大郎女生御子櫛角別王次大碓命次小碓命亦名倭男具那命次倭根子命次神櫛王五柱又娶八尺入日子命之女八坂之入日賣命生御子若帯日子命次五百木之入日子命次押別命次五百木之入日賣命又妾之子豊戸別王次沼代郎女又妾之子沼名木郎女次香余理比賣命次若木之入日子王次吉備之兄日子王次高木比賣命次弟比賣命又娶日向之美波迦斯毗賣生御子豊國別王又娶伊那毗能大郎女之弟伊那毗能若郎女生御子真若王次日子人之大兄王又娶倭建命之曽孫名須賣伊呂大中日子王之女訶具漏比賣生御子大枝王凡此大帯日子天皇之御子等所録廿一王不入記五十九王并八十王之中若帯日子命與倭建命亦五百木之入日子命此三王負太子之名自其余七十七王者悉別賜國々之國造亦和氣及稲置縣主也故若帯日子命者治天下也小碓命者平東西之荒神及不伏人等也次櫛角別王者茨田下連等之祖次大碓命守君大田君嶋田君之祖次神櫛王者木國之酒部阿比古宇陀酒部之祖次豊國別王者日向國造之祖於是天皇聞者定三野國造之祖大根王之女名兄比賣弟比賣二嬢子其容姿麗美而遣其御子大碓命以喚上故其所遣大碓命勿召上而即己自婚其二嬢子更求他女人詐名其嬢女而貢上於是天皇知其他女恒令經長眼亦勿婚而惚也故其大碓命娶兄比賣生子押黒之兄日子王此者三野之宇泥須和氣之祖亦娶弟比賣生子押黒弟日子王此者牟宜都君等之祖此之御世定田部又定東之淡水門又定膳之大伴部又定倭屯家又作坂手池即竹植其堤也<---後述--->凡此倭建命平國廻行之時久米直之祖名七奉(拳)脛恒爲膳夫以從從仕奉也此倭建命娶伊玖米天皇之女布多遅能伊理毗賣命生御子帯中津日子命一柱又娶其入海弟橘比賣命生御子若建王一柱又娶近淡海之安國造之祖意富多牟和氣之女布多遅比賣生御子稲依別王一柱又娶吉備臣建日子之妹大吉備建比賣生御子建貝兒王一柱又娶山代之玖々麻毛理比賣生御子足鏡別王一柱又一妻之子息長田別王凡是倭建命之御子等并六柱故帯中津日子命者治天下也次稲依別王者犬上君建部君等之祖次建貝兒王者讃岐綾君伊勢之別登袁之別麻佐首宮首之別等之祖足鏡別王者鎌倉之別小津石代之別漁田之別祖也次息長田別王之子杙俣長日子王此王之子飯野真黒比賣命次息長真若中比賣次弟比賣二柱故上云若建王娶飯野真黒比賣生子須賣伊呂大中日子王此王娶淡海之是等(柴)野入杵之女此等(柴)野比賣生子迦具漏比賣命故大帯日子天皇娶此迦具漏比賣命生子大江王一柱此王娶庶妹銀王生子大名方王次大中比賣命二柱故此之大中比賣命者香坂王忍熊王之御祖也此大帯日子天皇之御年壱佰参拾漆歳御陵」、訳は省略した。
『日本書紀』には稚足彦のみ太子にしたと記述するが、『舊事本紀』は記述せず、『古事記』は若帯日子・倭建・五百木之入日子を太子と呼び、更に、『古事記』では大帯日子は皇太子ではなく、『日本書紀』に記述されない大中彦が皇太弟だったと、矛盾に満ちている。
これまで、立太子を倭奴国の王朝交代と述べて来たが、その証拠の一つがここで示されて、『古事記』は纏向之日代宮天皇が皇太弟大中彦だったことを示し、倭建と五百木之入日子と志賀高穴穗宮天皇が皇太子だった3つの朝廷があり、『古事記』で太子を記述する朝廷は、この項以外は応神天皇以降しか記述されない。
本来朝廷の皇太子は一人だけで、『古事記』が記述してないのは、書く必要が無い、天皇が決まれば後継者が決まっていて、『古事記』に記述される太子は応神の太子の大雀・伊邪本和氣・木梨輕・白髮・忍坂日子人と継承に混乱があった人物で、ここでの太子は複数の志賀高穴穗天皇・倭建 ・五百木之入日子の朝廷から葛城氏が受け継いだからなのではないだろうか。
混乱が無ければ、太子自体を記述する必要が無く、志賀高穴穗宮天皇が、大雀が、 伊邪本和氣が、 白髮が即位して遷都したとすれば良く、バックにいる建諸隅の分家の木国造、尾張・息長氏、 娘婿の物部氏が分王朝を建てて闘ったため記述されたと思われる。
これまでの皇位継承は、天皇→皇后の兄弟か皇后の長男で、皇后の兄弟の子と皇后の子が互いに婚姻して女系が無くなるまで続き、無くなると分家へと受け継がれ、皇后の宮殿が首都で、この継承は太子が13歳以上、即位は20歳以上なので、凡そ30歳以上の即位で13歳以上の長男の太子が存在しないと皇后の兄弟の皇太弟が相続すると思われる。
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