2022年7月20日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』景行天皇類書10

  前項に続きである。

纏向宮天皇大中日子は咋俣長日子の娘の飯野真黒比賣の子で、咋俣長日子は『舊事本紀』「穗積氏祖忍山宿祢女弟橘媛」の孫で河派仲彦と同一人物にしているが河派仲彦は応神天皇の子の稚野毛二派王の祖父で世代が異なり、穂積氏の媛の系図の挿入間違いと思われる。

『古事記』では尾張氏が天皇の時、筆頭の妃が葛城氏の妃、次が尾張氏の妃、次が他の王の妃を記述してきたが、葛城天皇孝元天皇の妃が葛城氏の妃の内色許賣、すると、次の妃が尾張氏の妃の可能性が高く、尾張氏では倭得玉彦が大伊賀姫を妃にしていて、その子が比古布都押之信で、「比古布都押之信命娶尾張連等之祖意富那毗之妹葛城之高千那毗賣」、「大海姫命亦名葛󠄀木髙名姫命」と大海姫を妃にし、比古布都押之信の子の屋主忍男武雄心は八坂入日子にあたる。

また、八坂入日賣は『日本書紀』では淡海天皇と五百木之入日子の『古事記』で記述する二人の太子を生んで、五百木之入日子が仲哀天皇と考えられ、『古事記』では布多遲能伊理毘賣が仲哀天皇を生んでいるが、弟苅羽田刀辨が息長宿禰の母の遠津臣の高材比賣と証明され、石衝別が息長宿祢、石衝毘賣・布多遲能伊理毘賣が八坂入日賣で五百木之入日子を生んでいる。

倭得玉彦の子の一人が比古布都押之信と書いたが、比古布都押之信は山代の内臣を生んでいて、比古布都押之信は坐王の子の山代の大筒木眞若王にあたると思われ、山代之大筒木眞若王の妃は同母弟伊理泥で大海姫を襲名した阿治佐波毘賣、子の迦迩米雷は遠津臣紀伊國荒河戸畔の娘、弟苅羽田刀辨の子で、この弟苅羽田刀辨が中日女と間違えられ、子が息長田別とされたと思われる。

息長氏は淡海の坂田の王で、正統の息長王宿禰と分国した王の田別でどちらも「たけもろずみ」を襲名したと考えられる。

息長田別王は『舊事本紀』「息長田別命阿波君等祖」と記述され、その子が咋俣長日子、淡海天皇の妃が『古事記』「穂積臣等之祖建忍山垂根之女名弟財郎女」と穂積臣を受け継ぐ屋主忍男武雄心の子の息長宿禰の娘と考えられ、意富多牟和氣と八坂入日賣の子の五百木之入日子と大陀牟夜別、意富多牟和氣と柴野比賣の子の倭建・彦狭嶋、及び纏向天皇膽咋宿禰と穴太足尼・息長宿禰・建忍山垂根の娘の弟財郎女の子の五十琴宿祢が皇太子と呼ばれた。

さらに、息長宿禰は河俣氏の稻依毘賣を妃に大多牟坂王を生んでいるので、稻依毘賣の父の河俣氏が淡海天皇・穂積氏を受け継ぎ、それが多遅麻で娘が宮主の山無媛、息長田別の阿波君は淡()君と解り、すなわち、淡海朝廷は出雲三国王朝の寶を得た建諸隅→屋主忍男武雄心・八坂入日子→大入杵と意富多牟和氣→大陀牟夜別→弟財郎女→息長宿禰→息長宿禰の妃の稻依毘賣→咋俣長日子・多遅麻と皇位を継承した。

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