『日本書紀』の景行紀は朝廷の領域拡張を記述しているが、中国史書から見ると、前漢の東鯷国滅亡、「分為百餘國」から後漢の「三十許國」、辰から秦、「桓靈間倭國大亂」で、景行朝は秦国が建国された後、倭国が縮小した時期にあたり、70国以上を景行朝が拡張したことになる。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀』は続けて「二十年春二月辛巳朔甲申遣五百野皇女命祭天照太神冬十月遣日本尊令擊熊襲時年十六歳三十六年八月大臣物部膽咋宿祢女五十琴姫今為妃生五十功彦命五十一年春正月壬午朔戊子詔群卿而宴數日矣時皇子稚足彦尊武内宿祢不參起于宴庭之天皇即問其故因以奏曰夫宴樂之日群卿官僚必情在戲遊不存國家若有狂生而伺壗閣之隟故侍門下備非常時天皇詔曰灼然則異寵之焉秋八月稚足彦命立為皇太子年二十四命武内宿祢爲棟梁之臣初天皇與武内宿祢同日之故有異寵焉」、【二十年の春二月辛巳朔甲申、五百野皇女を派遣して、天照太神を祀らせられた。冬十月、日本武を派遣して、熊襲を討たせた。年令は十六歳であった。四十六年の八月、大臣物部胆咋宿祢の娘の五十琴姫を妃とした。妃は五十功彦を生んだ。五十一年の春正月壬午朔戊子、群卿を集めて宴を催し、何日も続いた。このとき、皇子の稚足彦と、武内宿祢は、その宴に出席しなかった。天皇はそのわけを尋ねると「宴の日には、群卿百寮がくつろぎ遊ぶことに心が傾き、国家のことを考えていない。もし狂った者がいて、警護のすきを窺ったらと心配だ。それで垣の外に控えて非常に備えている」と答え、天皇は「立派だ」と言って目をかけた。秋八月、稚足彦命を立てて皇太子にした[皇太子の年は二十四歳]。また、武内宿祢を棟梁の臣とした。天皇と武内宿祢とは、同じ日に生まれた。それで特に重用した。】と訳した。
二十年春二月辛巳朔は1月30日で九州の暦、五百野皇女は三尾氏の娘で、淡海の高島出身、石撞別は加賀国造の祖でこれらの国と関係する王の説話と考えられ、淡海の高島なら伊勢遺跡と近く、豊城入彦は東国を支配し、孫の彦狹嶋は東山道十五國都督で能登国造で加賀も15国に含まれる可能性が高い。
また、熊襲征伐は二十七年で『日本書紀』の十月丁酉朔も丁卯で丁酉は9月1日で違う王朝の説話と解り、五十一年正月壬午朔は天文学的朔で、この時の武内宿祢こそ大足彦その人ではないかと考えられる。
大足彦・武内宿禰は西道侵攻した吉備津彦の子孫と思われる若建吉備津日子の娘の稻日大郎姫を妃にして、仲国豊国日向を制圧し、小碓が日向、大碓が大根の娘を妃にすることで御間城入彦・武内宿禰が大国王・大帯彦になったと考えられる。
三野国造の祖の大根は亦名が八瓜入日子で、近飛鳥に八釣宮が有り、雄略天皇が八釣白彦を倒す必要があり、大根の娘との子が押黒の兄日子・弟日子で、雄略天皇は境黒日子も皇位継承の為には殺害する必要があったのは、葛城天皇の皇位継承の源泉だったからと考えられる。
また、小碓は倭奴国(夏磯媛・市鹿文・阿知使主)や高千穂朝(諸縣君牛諸井)と組んで「狗奴國」を肥後に追いやり、日向王、そして、小国と組んで仲国、小国と組んで難波朝廷を滅ぼし、和珥臣祖難波根子武振熊や倭直吾子篭(珍彦)と組んで葛城を侵略(神武東征)して磐余稚櫻朝廷を開き、倭奴国王の 阿知使主・都加使主の子達は筑紫使君として、「東征毛人五十五國西服眾夷六十六國渡平海北九十五國」と九州と朝鮮が自領と宋に主張したと考えられる。
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