2022年6月29日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』景行天皇類書1

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀』は続けて「景行天皇諱日本大足彦忍代別尊者活目入彦五十狹茅天皇第三太子也母曰皇后葉洲媛命丹波道主王之女也元年歳次辛未秋七月皇太子尊即天皇位尊皇后曰皇太后尊皇太后追贈太皇太后二年二月播磨稻日太郎姬立為皇后誕生三男第一大碓命次小碓命次稚根子命矣其一二皇子日同腹雙生天皇異之則誥於碓故曰大碓小碓尊幼有雄(?)之氣及壯容貌魁律身長一丈力能扛鼎焉四年天皇幸美濃國左右奏言此國有佳人日弟媛容姿端正八坂入彦皇子之女也天皇欲入爲幸弟媛家聞乗輿車駕則隠竹林矣天皇權令弟媛至而居于浗宮鯉魚浮池臨視而戲時弟媛欲見鯉遊密來臨池天皇遇之矣弟媛以為夫婦之道古今達則也然於吾而不便則請天皇曰妾性不欲交接之道今不勝皇命之威暫納帷幕之中然意(?)不快亦形姿穢陋久之不堪陪於掖庭唯有妾妹名日八坂入媛容姿美麗志亦貞潔冝納後宮天皇聴之仍喚八坂入彦媛為妃生男七女六女皇子第一稚足彦次五百城入彦次丒足別次稚倭根子 次大酢別次五十狹城入彦次吉備兄彦次淳熨斗姫次淳名城姫次五百城入姫次麛依姫次高城入媛次弟姫次妃三尾氏磐城別之妹水齒郎媛生五百野皇女次妃五十河媛生神櫛皇子次稲背入彦皇子次妃阿倍氏高田媛生武國疑別皇子次妃日向髪長大田根生日向襲津彦皇子次妃襲武媛生國乳別皇子與國疑別皇子次國背別皇子亦名宮道皇子次豐戸皇子次妃佳人日御刀媛生豐國別皇子」、【景行天皇の諱は日本大足彦忍代別で活目入彦五十狹茅天皇の第三子で母は皇后日葉洲媛で丹波道主王の娘だ。元年辛未年の秋七月、皇太子は天皇に即位した。皇后を尊んで皇太后と言い、皇太后を尊んで大皇太后を追号した。二年の二月、播磨稲日大郎姫を皇后とした。皇后は、三人の皇子を生み、第一子が大碓、次が小碓、次が稚根子だ。その大碓と小碓は、同腹の双子として生まれた。天皇はこれをいぶかって、碓に向かって叫んだので、二人の皇子を大碓・小碓と言う。小碓は幼いときから雄々しい性格で壮年になると、容貌はすぐれて逞しかった。身長は一丈、力は鼎を持ち上げられるほどであった。四年、天皇は美濃国に行った。側近の者が「この国に、美人がいます。弟媛といい、容姿端麗で八坂入彦皇子の娘です」と言った。天皇は、妃にしようと思い、弟媛の家に行った。弟媛は天皇が来たと聞いて、竹林に隠れた。天皇は、弟媛を引き出そうと計って、泳宮にいて、鯉を池に放って、見て遊んだ。あるとき、弟媛はその鯉が遊ぶのを見ようと思って、ひそかにきて池を見た。天皇はそれを引きとめて召した。弟媛は、夫婦の道は昔も今もずっとおこなわれるものであるが、自分には無用と考えた。そこで、天皇に「私は交接を望みません。いま、恐れ多い言葉のため、大殿の中に召されたが、心の中は快くない。また、私の顔も美しくなく、長く後宮にお仕えすることはできません。ただ、私には姉がいて、名を八坂入媛といい、美人で志も貞潔です。どうぞ後宮に召し入れてください」と申し出たため、天皇はこれを許し、八坂入媛を妃とした。八坂入媛は七男六女を生んだ。(以下略)】と訳した。

『日本書紀』もほぼ同じだが、『日本書紀』は『舊事本紀』に無い武内宿禰の出生を記述し、「三年春二月朔」は1月30日で九州の王朝の記録と考えられ、「娶紀直遠祖菟道彦之女」と春日宮天皇以前の内容が記述され、本来は朔の日干支から孝元天皇7年か開化44年の説話で、恐らく、開化44年の伊香色男統治3年の説話の可能性がある。

そして、八坂入媛を妃にしたのは、恐らく木國造荒河刀弁の孫豊城入彦か曽孫の意富多牟和氣で、荒河刀弁は武内宿禰の義兄弟の可能性があり、荒河刀弁は襲名した建諸隅の可能性がある。

丹波比古多多須美知能宇斯王・弟彦と水之穗眞若・豊城入彦、義父荒河刀弁とが皇位を争って水之穗眞若王が負けて、別朝廷を開いたようだ。

分王朝は建諸隅の娘婿の豊城入彦、同じく娘婿の大新河、妹大海姫の子の八坂入彦、これは恐らく同じく建諸隅の妹の子の山代之大筒木眞若王の子が八坂入彦其の人で、豊城入彦の妹豊鋤姫は「妹豊鋤比賣命者拝祭伊勢大神之宮也」と伊勢大神を祀り、八坂は「八坂彦命伊勢神麻績連等祖」と伊勢遺跡の地の王で、山代之大筒木眞若王の孫は息長を名乗り、「息長地名在近江國坂田郡」のように、伊勢の八坂の坂と関係が有りそうだ。

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