2022年6月22日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書13

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天孫本紀』は続けて「八世孫物部武諸遇連公新河大連之子此連公磯城瑞籬宮御宇天皇即位六十年詔群臣日武日照命從天將來神寶藏于出雲大神宮是欲見焉則遣矢田部造遠祖武諸遇命使分明檢定獻奉覆命之時乃爲大連奉齋神宮物部膽咋宿祢女清媛爲妻生一男弟物部大小市連公小市直等祖弟物部大小木連公狹夜部直久奴直等祖弟物部大母隅連公矢集連等祖巳上三連公志賀髙穴穗宮御宇天皇御世並爲侍臣供奉孫物部膽咋宿禰 十市根大連之子此宿祢志賀髙穴穗宮御宇天皇御世元爲太臣次爲宿祢奉齋神宮其宿祢之宮始起此時矣市師宿祢祢穴大足(?)女比咩古命爲妻三兒又阿努建部君祖大玉命女鴨姬爲妾生一兒三川穂國造美巳止真妹伊佐姫爲妾生一兒宇太笠間連祖大(?)命女止巳呂姫爲妾生一兒弟物部止志奈連公杭田連等祖弟物部片堅石連公駿河國造等祖弟物部印岐美連公志紀縣主遠江國造久努真佐夜直等祖弟物部金弓連公田井連佐比連等祖巳上四連公同朝御世並爲侍臣供奉九世孫物部多遅麻連公武神諸遇大連之子此連公纏向日代宮御宇天皇御世拜爲大連奉齋神宮物部五十琴彦連公女安媛爲妻生五兒孫物部五十琴宿祢連公膽咋宿祢之子此連公磐余稚櫻宮御宇神功皇后攝政御世元為大連次為宿祢奉齋神宮物部多遅麻大連女香兒媛為妻生三兒妹物部五十琴姫命此命纏向日代宮御宇天皇御世立為皇妃誕生一兒即五十功彦命是也弟物部五十琴彦連公此連公物部竹古連公女弟媛為妻生二兒弟物部竺志連公奄智蘰連等祖弟物部竹古連公藤原垣見君長田川合君三川蘰連等祖弟物部椋垣連公域蘰連比尼蘰連等祖已上三人同朝御世並為侍臣供奉十世孫物部印葉連公多遅麻大連之子此連公輕嶋豐明宮御宇天皇御世拜為大連奉齋神宮姉物部山無媛連公此連公輕嶋豐明宮御宇天皇立為皇妃誕生太子莵道稚郎皇子次矢田皇女次嶋鳥皇女其矢田皇女者難波高津宮御宇天皇立為皇后弟物部伊与連公弟物部小神連公已上二人同朝御世並為侍臣供奉弟物部大別連公此連公難波高津宮御宇天皇御世詔為侍臣奉齋神宮輕嶋豐明宮御宇天皇太子莵道稚郎子同覆妹矢田皇女難波高津宮御宇天皇立為皇后而不生皇子之時詔侍臣大別連公為皇子代后號為氏使為氏造改賜矢田部連公姓孫物部伊莒弗連公五十琴宿祢之子此連公稚櫻柴垣二宮御宇天皇御世為大連奉齋神宮倭國造祖比香賀君女玉彦媛為妻生二兒娣岡陋媛為妾生二兒弟物部麥入宿祢連公此連公遠飛鳥宮御宇天皇御世元為大連次為宿祢奉齋神宮物部目古連公女全能媛為妻生四兒弟物部石持連公佐為連等祖孫物部目古連公田井連等祖五十琴彦之子弟物部牧古連公伏比伏連等祖」、【・・・物部山無媛連公は、軽嶋豊明宮で天下を治めた天皇の皇妃となり、太子・莵道稚郎子皇子矢田皇女雌鳥皇女をお生んだ。その矢田皇女は、難波高津宮で天下を治めた天皇の皇后となった。・・・天皇の太子である莵道稚郎子皇子の同母妹・矢田皇女は、難波高津宮で天下を治めた天皇の皇后になったが、皇子は生まれなかった。このとき、侍臣の大別連公に詔して、御子代を設けさせた。皇后の名をウヂの名とし、大別連公を氏造として、改めて矢田部連公の姓を賜った。・・・】と系図以外を訳した。

前項で『日本書紀』の志紀縣主の襲名した葉江の天忍人から建諸隅・武諸遇を接点に和珥臣の祖が多遅麻に引き継がれたと述べたが、志紀縣主は『古事記』では志紀縣主の祖と記述され、最初の志紀縣主と記述されるのは雄略朝の志紀大縣主で、すなわち、葛城氏の神武天皇の襲津彦が東侵した390年頃の天皇大中彦が志紀大縣主である。

この志紀縣主の祖は、十市根の兄弟の建新川、十市根の子の印岐美が継承し、志紀が首都の時の志紀縣主は天皇で、志紀から纏向に遷都するまで建新川や印岐美が『古事記』の首都の師木の志紀縣主の地位を得たことを示し、十市根は神宝を司った。

それで、皇位は十市根、膽咋、五十琴宿祢と継承され、多遅麻が娘を五十琴宿祢に嫁がせて皇位を継承したが、 五十琴彦も娘が多遅麻の妃となって、印葉に後継者が居なかったと思われ、五十琴彦の子の目古が皇位を継承したと考えられる。

また、記紀に出現しない景行天皇妃の五十琴姫は纏向王朝の妃の大中姫、すなわち、五十琴宿祢が大中彦で、十市根、膽咋、五十琴宿祢、麥入、大前小前の家系が大中彦である。

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