2022年6月20日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書12

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天孫本紀』は続けて「七世孫建膽心大(?)命此命磯城瑞籬宮御宇天皇御世姫為大(?)供奉弟多辨宿祢命宇治部連交野連等祖此命同天皇御世爲宿祢供奉弟安毛建美命六人部連等祖此命同天皇御世爲侍臣供奉弟大新河命此命纏向珠城宮御宇天皇御世元爲大臣次賜物部連公姓則改爲大連奉齋神宮其大連之號始起此時紀伊荒川戸俾女中日女爲妻生四男弟十市根命此命纏向珠城宮御宇天皇御世賜物部連公姓元為五大夫一次為大連奉齋神宮勑物部十市根大連曰屢遣使者於出雲國雖撿校其國神財而無分明奏言者汝親行于出雲國冝檢校定則十市根大連挍定神財分明奏言矣仍令掌神寶者同天皇御世五十瓊敷入彦皇子命於河内國幸乃河上宮作大刀千口名曰赤花伴亦云裸伴剱今藏在石上神寶此後詔皇子命俾主石上神寶矣同天皇御世即經八十七年五十瓊敷倉皇子命謂妹大中姬命日我老也不能掌神財自今已後必汝主焉大中姬命辞曰吾手弱女人也何能登天神庫耶五十瓊敷入々彦命曰神庫雖高我能為神庫造梯豈煩登庫乎故諺曰天之神庫隨樹梯之緣也然遂大中姬命遂授物部十市大連而令冶石上神寶盖是其縁也物部武諸遇連公女子時(?)爲妻生五男弟建新川命倭志紀縣主等祖弟大咩布命若湯坐連等祖此二命同天皇之御世並為侍臣供奉」 、【弟大新河命は、纏向珠城宮で天下を治た天皇の世、大臣となり、ついで物部連公の姓をもらい、改めて大連となって、神宮を祀った。大連の号は、このとき初めて起こった。<・・・略・・・>十市根は、纏向珠城宮で天下を治めた天皇の世に、物部連の姓をもらい、はじめ五大夫の一人、ついで大連となって、神宮を祀った。十市根に、天皇は「たびたび使者を出雲国に派遣して、その国の神宝をあらためさせたが、はっきりとした報告をする者がいない。お前が出雲国に行って、調べて来なさい。」と言った。十市根は、神宝を調べて報告したため、神宝のことをつかさどることになった。五十瓊敷入彦は河内国の幸の河上宮で、剣千口を作らせ名づけて、赤花の伴といい、または裸伴の剣という。現在は石上神宮にある神宝である。この後、五十瓊敷入彦に言って、石上神宮の神宝をつかさどらせて八十七年を経たとき、五十瓊敷入彦が、妹の大中姫に「私は老いたから、神宝を掌ることができない。これからはお前がやれ」と言ったが、大中姫命は辞退して「私はかよわい女だ。どうして神宝を収める高い神庫に登れるか」と言った。五十瓊敷入彦は「神庫が高いといっても、私が神庫用に梯子を作るから、登るのが難しいことはない」と言った。ことわざにもいう“天の神庫ははしだてのままに”というのは、このことが元である。その後、ついに大中姫は物部十市根大連に授けて、石上の神宝を治めさせた。物部氏が石上の神宝をつかさどるのは、これがその起源である。・・・以下略】 と系図以外を訳した。

武諸隅は『舊事本紀』では伊香色雄の子の十市根の兄弟で大新河の子なのに、十市根が垂仁天皇の大連、武諸遇は崇神天皇の大連、十市根の妃が武諸遇の娘の時姫で、武諸隅は義父となり、2代の齟齬があるが、武諸隅は十市根の子の膽咋宿祢の娘清媛を妃にしていて、膽咋宿祢と同世代より次の世代に近い人物となり、武諸隅は、少なくとも4代の襲名があったとわかる。

ところが、十市根の神宝の検分が垂仁87年、武諸隅の検分が崇神60年で、この90年を超える間隔は4世代程度の差では理に適わず、恐らく、崇神60年の武諸隅は物部の襲名武諸隅ではなく尾張の襲名建諸隅で、建諸隅が君子国の天皇の璽を得て朝廷を開き、垂仁天皇の首都が『古事記』では師木、『日本書紀』では纏向と異なる原因で、実際の活目と豐城の及び建諸隅の皇位の相続争いが起こったのがこの時期と考えられる。

さらに、十市根の義父が武諸隅で大新河の子が武諸隅なら、大新河の妻の父の紀伊荒川戸俾が武諸隅と考えられ、豐鍬入彦の妃の父が紀伊荒川戸俾で義兄弟、武諸隅の子の多遅麻は「和珥臣祖日觸使主之女宮主宅媛生菟道稚郎子皇子」、「物部山無媛連・・・為皇妃誕生太子莵道稚郎皇子」と和珥臣の祖で、和珥臣の祖は「天足彦國押人命此和珥臣等始祖」、「和珥臣達祖姥津」のように、紀伊荒川戸俾・武諸隅の先祖が天押人で、姥津の妹の子の丹波を攻略した坐王と十市根の父の伊香色雄が同世代、紀伊荒川戸俾と大海姫が同世代、天忍人の子孫の「尾張連之祖意富阿麻比賣」の兄弟が建諸隅で、尾張氏の建諸隅と物部氏の大新河の妃の父の荒川戸俾・武諸隅は全て同一一家の人物と思われる。

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