『日本書紀』は続けて概略、「廿三年秋九月丙寅朔丁卯と十月乙丑朔壬申に譽津別の説話、十一月甲午朔乙未に部を作った説話」に対して、『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「故率遊其御子之状者在於尾張之相津二俣椙(榲)作二俣小舟而持上來以浮倭之市師池輕池率遊其御子然是御子八拳鬚至于心前真事登波受故今聞高往鵠之音始爲阿藝登比尓遣山邊之大鶙令取其鳥故是人追尋其鵠自木國到針間國亦追越稲羽國即到旦波國多遅麻國追廻東方到近淡海國乃越三野國自尾張國傳以追科野國遂追到高馬(志)國而於和那美之水門張網取其鳥而持上獻故号其水門謂和那美之水門也亦見其鳥者(於思)物言(而)加(如)思尓勿言事於是天皇患賜而御寐之時覺于御夢曰修理我宮如天皇之御舎者御子必真事登波牟如此覺時布計(斗)摩迩(迩)占相而未(求)何神之心尓崇出雲大神之御心故其御子令拝其大神宮將遣之時令副誰人者吉尓曙立王食卜故科曙立王令宇氣比白因拝此大神誠有験者住是鷺巣池之樹鷺乎宇氣比給(落)如此詔之時宇氣比其鷺堕地死又詔之宇氣比活尓者(宇氣比)更活又在甜白檮之前葉広熊白檮命(令)宇氣比枯忽(亦)令宇氣比生尓名賜曙立王謂倭者師木登美豊朝倉曙立王」、【それで、その子を連れて遊ぶ様子は、尾張の相津に在る二俣の榲を二俣の小舟に作って、持って上って、倭の市師池、輕池に浮かべて、その子と一緒に遊んだ。しかし、この子は、八国風の一拳の鬚が心臓の前に届くまでになっても全く口を利かなかった。それで、今、空高く飛ぶ鵠の声を聞いて、始めて「ああ」と言った。それで山邊の大鶙を派遣して、その鳥を取らせた。それで、この人はその鵠を追い探して、木國から針間國に到って、さらに追って稻羽國を越え、それで旦波國、多遲麻國に到って、東の方に追い回って、近淡海國に到って、それで三野國を越え、尾張國からつたって科野國に追い、とうとう高志國に追ひ到って、和那美の水門に網を張って、その鳥を取って上って献上した。それで、その水門を和那美の水門と言った。またその鳥を見ると、何か言うと思ったが、思ったようには言葉を発しなかった。それで、天皇は悲しんで、寝た時、夢見に「我が宮を天皇の御殿のように修理すれば、子は必ず言葉を発する。」と言った。この様にして目覚めた時、太占で占って、どの神の心だ求めると、その祟りは出雲の大神の心とでた。それで、その子をその大神の宮に礼拝するよう派遣した時、誰が一緒に行けばよいかを占った。すると、曙立王が卜うと良いと出た。それで、曙立王に言って、「この大神を拜むにあたって、本当に験が有るのなら、この鷺巣池の樹に住む鷺よ、神の誓いで落ちろ。」と誓約した。この様に言った時に、誓約したその鷺は、地面に墮ちて死んだ。また「誓約で活きかえれ。」と言うと、生き返った。また、甜白梼の前に在る葉廣熊白梼を、誓約で枯らし、亦、誓約で生き返らせた。そこで、名を曙立王に与えて、倭者師木登美豐朝倉曙立王と言った。】と訳した。
この説話は、『古事記』に「東方所遣建沼河別與其父大毗古共往遇于相津故其地謂相津也是以各和平所遣之國政而覆奏尓天下太平人民富榮於」のように、この、4道侵攻で尾張の相津に到着して、天下を平定したと述べた後の説話と考えられる。
この説話は、大彦・建沼河別・品牟都和氣の三代がこの相津での戦利品の船で遊んだ説話とと考えられ、後に、退位した建沼河別は垂仁朝(実際は崇神朝?)の臣下の5大夫として臨席した時、天皇が『日本書紀』「是以人民富足天下太平也今當朕世祭祀神祇豈得有怠乎」の説話に繋がったと考えられる。
曙立王の祖母は山代の荏名津比賣、亦の名は苅幡戸辨で、苅幡戸辨は垂仁天皇の妃の山背大國の不遲の娘で落別・祖別の子が曙立王と考えられ、次項で出雲に行く途中で品遅部を定めているが、順序で言うとまだ品遅部は出来ておらず、食い違っていて、建沼河別の朝廷滅亡後の品遅部が定められた後の説話なら話が通り、奇日方や鞴五十鈴の三国王朝が崩壊し、その権威を出雲氏が受け継いだのがこの説話で、その後で、曙立王の父は天皇になり、曙立王も師木登美豐朝倉の天皇となったと言っている。
すなわち、苅幡戸辨は荒河刀辨の娘の遠津年魚目目微比賣の可能性があり、落別・祖別は豐木入日子の可能性があり、豐木入日子は美知能宇斯王の子の朝廷別・弟彦に対する水穗眞若王・豐木入日子が落別・祖別は名前としても良く合致する。
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