『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は『天皇本紀上』は「三十年春正月己未朔甲子天皇詔五十瓊敷命大足彦尊曰汝等各言情願之物也兄王諮欲得弓矢弟王諮欲皇位於是天皇詔之曰各冝隨情則以弓矢賜五十瓊敷命仍詔大足彦尊曰汝必継朕位矣三十二年秋七月甲戌朔己卯皇后日葉酢媛命薨三十七年春正月戊寅朔大足彦命立爲皇太子八十一年春二月壬子朔五大夫十市根命賜姓物部連公即為大連九十九年秋七月戊子朔天皇崩於纏向宮時年百四十歳冬十二月癸卯朔壬子葬於菅原伏見陵(?所)正皇子十男三女兄譽津別命鳥取造等祖次五十瓊敷入彦命次日本大足彦忍代別尊次大中姬命次倭姬命天照太神齋祠初起齋宮次稚城瓊入彦命次鐸石別命次膽香足姬命次磐撞別命三尾君等祖次稻別命次池速別命次五十建石別命次五十日足彦命」、【三十年春正月己未が朔の甲子、天皇は五十瓊敷と大足彦に「お前たち、それぞれに欲しいものをいってみよ」と言った。兄は、「弓矢が欲しいです」と、弟は、「天皇の位が欲しいです」と言った。そこで、天皇は「それぞれ望みのままにしよう」と言い、弓矢を五十瓊敷命に与え、大足彦尊には、「お前は必ずわが位を継げ」と言った。三十二年秋七月甲戌が朔の己卯、皇后・日葉酢媛が崩じた。三十七年春正月戊寅が朔、大足彦を皇太子にした。八十一年春二月壬子が朔、五大夫の一人の十市根に、物部連公の姓を与え、大連とした。九十九年秋七月戊子が朔に、天皇は纏向宮で崩じ、百四十歳であった。冬十二月癸卯が朔の壬子、菅原伏見陵に葬った。天皇が生んだ子は、十男三女であった。<・・・以下略・・・>】と訳した。
五十瓊敷と大足彦の皇太子争奪戦は、結果として、五十瓊敷が「五十瓊敷命謂妹大中姫曰我老也不能掌神寶」と、天皇の璽の神寶を大中姫に引き継いでいて、大中姫は『古事記』では「大中津日子」と異なっていいて、実際は大中彦に天皇の璽を引き継いだと考えられる。
すなわち、この説話は五十瓊敷と大中(津)彦の説話で、『古事記』には『日本書紀』に出現しない「須賣伊呂大中日子」が存在し、皇太弟大中彦は説話に対応していて、大中日子の娘の訶具漏比賣は大帶日子の妃で五十瓊敷の妃が大中彦の姉、大中彦の妃が大中姫なら理に適う。
「八十一年春二月壬子」の賜姓は、「廿六年秋八月戊寅朔庚辰天皇勅物部十千根大連曰屡遣使者於出雲國」と十千根大連を記述して矛盾しており、二五年「和珥臣遠祖・・・中臣連遠祖・・・物部連遠祖・・・大伴連遠祖」は前5年以降に天皇の親族若しくは中臣氏のように同盟関係から臣下に変わったことを示し、大中彦が仲国を配下にしたのが前5年頃だったことが解り、そして、廿六年の出雲の神寶を、すなわち、君子国の皇位の璽を得て、姓の無い倭志紀彦(天皇)の娘の真鳥姫の子の十千根が皇太弟大中彦となったことを示している。
卅七年春正月戊寅の立太子は、西暦116年から37年後の152年に倭奴国が都を変えた王を記述していると思われ、『三国史記』には121年「十年春夏四月倭人侵東邊」、「十一年夏四月大風東來折木飛瓦至夕而止都人訛言倭兵大來」は倭の来襲に怯えた様子を記述し、123年に「十二年春三月與倭國講和」のように倭と講和し、125年に倭の同盟国百濟は己婁王「四十九年新羅為靺鞨所侵掠移書請兵王遣五將軍救之」と新羅を助け、倭は外交で主導権を握り、同年に倭国は後漢鏡が出土する野方遺跡の近くの室見川に銘板が発見され、「高暘左王作永宮斎鬲延光四年五」と篆書交じりの銘板を残し、永宮を作り、『後漢書』には邪馬台国に「大倭王」が居たと記述し、「倭國王帥升」と区別している。
脱解尼師今十七年西暦73年「倭人侵木出島」と新羅に倭が侵略し、倭国王帥升が伊都国に造反し、宗像まで勢力圏だった「拘奴國」を畿内政権の大倭王が「拘奴國」を追い出し、さらに、高千穂王朝の伊都国の勢力下だった粕屋に侵略、粕屋が地盤の甕棺を用いない倭が甕棺を使う伊都の勢力下の室見川に侵略し、『後漢書』の「桓靈間倭國大亂」となったと考えられる。
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