『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は『天皇本紀上』は「二十三年秋八月丙申朔已亥大新河命為大臣十市根命為五大夫一並宇摩志麻治今裔孫也同月丙申朔丁巳大臣大新河命賜物部連公姓即改大臣号大連九月丙寅朔丁卯詔群卿曰譽津別王是生年三十鬢鬚八掬猶泣如兒常不言何由矣因有司而議矣冬十月乙丑朔壬申天皇立於大殿前舉津別王子侍之時有鵠鳴度大虛王子仰觀鵠曰是何物耶天皇則知王子見鵠得言而喜之詔左右曰護能捕此鳥獻之於是鳥取造祖天湯河板舉奏曰臣必捕而獻即天皇勑湯河板舉曰汝獻是鳥必敦賞矣湯河板舉遠望鵠飛之方進尋詣出雲而捕獲或日得于但馬國矣十一月甲午朔己未湯河板舉獻鵠也舉津別命弄是鵠遂傳言語是以敦賞湯河板舉則賜姓而号鳥取造亦定鳥取部鳥養部譽津部」、【二十三年秋八月丙申が朔の已亥、大新河を大臣とし、十市根を五大夫の一人とし、ともに宇摩志麻治の子孫である。同月丁巳に、大臣の大新河に物部連の姓を賜った。そうして、大臣を改めて大連とした。九月丙寅が朔の丁卯、天皇は群卿に「誉津別王は三十歳になり、長い髭が伸びるまでになっても、なお子供のように泣いてばかりいる。そして声を出して物を言うことができないのは何故か。皆で考えよ」と詔勅した。冬十月乙丑が朔の壬申、天皇は大殿の前に立ち、誉津別王子はそのそばにつき従っていた。そのとき、白鳥が大空を飛んでいった。王子は空を仰ぎ白鳥を見て言った。「あれは何物か」と、天皇は、王子が白鳥を見て、口をきいたのを知り喜んだ。側近の者たちに「誰か、この鳥を捕らえて献ぜよ」と命じ、そこで、鳥取造の祖の天湯河板挙が言った。「わたくしが必ず捕らえてきましょう」と、天皇は湯河板挙に「お前がこの鳥を捕らえたら、必ず十分に褒美をやろう」と言った。湯河板挙は、遠く白鳥が飛んでいった方向を追って、出雲まで行き、ついに捕らえた。ある人は「但馬国で捕らえた」ともいう。十一月甲午が朔の己未、湯河板挙は白鳥を献じた。誉津別はこの白鳥をもてあそび、ついに物が言えるようになった。これによって、あつく湯河板挙を褒賞し、姓を授けて、鳥取造と名づけた。また、鳥取部、鳥養部、誉津部を定めた。】と訳した。
五大夫は「阿倍臣遠祖武渟川別和珥臣遠祖彦國葺中臣連遠祖大鹿嶋物部連遠祖十千根大伴連遠祖武日」だが、渟川別は天皇大彦の皇太子、國葺は和珥臣の祖の國意祁都が襲名した和珥臣の祖の建諸隅の中の一人と考えられ、4道侵攻後の勝利宣言の主要メンバーで、建諸隅は大臣で、大新河も大臣、かつ、子が物部武諸遇で、曽孫が和迩臣の祖の「日觸使主之女宮主宅媛」の物部山無媛なので、建諸隅・武諸遇は和迩氏を受け継ぎ野洲王朝を打ち立てたと言う事だ。
大新河・十千根の母が山代縣主祖で、山代は木国造の祖の珍彦の娘婿の比古布都押之信が山代内臣の祖を生み、建諸隅の母も紀伊國造の娘と思われる節名草姫、建諸隅の子の倭得玉彦は2代目大彦と伊香色謎の娘と思われる大伊賀姫・御眞津比賣を妃にし、伊香色謎の兄の伊香色雄は山代縣主祖の娘を妃にして、大新河・十千根の父である。
すなわち、五大夫は大彦天皇のもとに、皇太子と、皇太子と同等の大臣と仲国王と日本海の海の道と瀬戸内の海の道の王達で、大国・倭国・仲国・日本海・瀬戸内の朝廷が成立したことを示したようだ。
『古事記』には旦波大縣主すなわち初代大彦の娘の竹野媛と欝色雄の子の天皇の2代目の大彦天皇の伊香色雄の子の「彦小將箐命品治部君等祖彦湯産隅命」と品治部君の祖の比古由牟須美、その子が大筒木垂根、すなわち、武渟川別・比古由牟須美が春日朝の皇位を継承し、誉津別は武渟川別・比古由牟須美と沙本毘賣の子の大筒木垂根と推定できる。
ここで、鬱色謎と欝色雄、 鬱色謎 の子の大彦・由碁理と欝色雄の娘の伊香色謎、竹野比賣と2代目大彦の欝色雄の子の伊香色雄と大綜杵の子の伊香色謎、比古由牟須美と大綜杵の子の伊香色雄が開化天皇と思われるが、坐王はどの開化天皇の子かと言えば、大倭根子の姫の民磯姫の子の阿田賀田須・大諸見足尼の娘の諸見巳姫を妃にした建諸隅が開化天皇と考えられる。
大彦と共に坐王は丹波を攻略したにもかかわらず、五大夫に含まれず、これは、倭得玉彦が実権を握ったため、物部武諸遇・國葺が五大夫になったと考えられ、女系の皇位継承では、家内工業のように、夫も兄弟とその子や孫も一心同体の天皇や王と考えられる。
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