2022年6月27日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書15 氏族2

  前項では淡海・野洲王の系譜を検証したが、さらに興味深い氏族が、但遲麻國造で『舊事本紀』「六世孫建田背命神服連海部直丹波國造但馬國造等祖」、「和迩臣遠祖姥津命之妹姥津姫生彦坐王・・・次彦坐王當麻坂上君等祖」、「但遲麻國造・・・彦坐王五世孫」とあるように、但遲麻國造は尾張氏建田背の系譜で坐王も尾張氏である。

そして、『古事記』「山代之大箇木真若王娶同母弟伊理泥王之女母丹波能阿治佐波毗賣生子迦迩米雷王此王娶丹波之遠津臣之女名高材比賣生子息長宿祢王此王娶葛城之高額比賣生子息長帯比賣命次虚空津比賣命次息長日子王息長宿祢王娶河俣稻依毗賣生子大多牟坂王此者多遅摩國造之祖也」、『舊事本紀』「但遲麻國造彦坐王五世孫舩穗足定賜國造」と、大箇木真若が坐王の子、迦迩米雷が孫、息長宿祢が3世の孫、大多牟坂が4世の孫、舩穗足が5世の孫となる。

前項で、景行天皇意富多牟和氣の子が志賀髙穴穗天皇大陀牟夜別で大陀牟の名の系譜の始めと述べたが、すると、息長宿祢の妃河俣稻依毗賣が景行天皇の姻戚と解り、『古事記』「娶近淡海之安國造之祖意富多牟和氣之女布多遅比賣生御子稲依別王」とあるように、倭建の子の稲依別王と似た名の河俣稻依毗賣も倭建の娘か孫の可能性が高い。

さらに、淡海志賀髙穴穗天皇大陀牟夜別の妃は『古事記』「穂積臣等之祖建忍山垂根之女名弟財郎女生御子和訶奴氣王」と穂積臣の祖の娘で、『古事記』以外記述されないが、『舊事本紀』のみに記述される人物の皇妃の物部五十琴姫が存在し、すなわち、複数の宮の天皇、皇子がいない宮の天皇と和訶奴氣王が生まれた宮の天皇、物部氏を妃にして五十功彦が生まれたた宮の天皇が存在する。

五十琴姫が皇后の天皇の他の一つの朝廷は、淡海志賀髙穴穗天皇で太子が生まれず、倭建の子が即位した天皇、また、五十琴姫皇后の義兄弟が物部多遅麻で、五十琴彦の娘の安媛との子が宮主山無媛、太子の莵道稚郎の母である天皇で、五十琴姫皇后の朝廷を多遅麻が簒奪した。

そして、『古事記』「大帯日子游斯呂和気・・・娶倭建命之曽孫名須賣伊呂大中日子王之女訶具漏比賣」と師木玉垣天皇の娘の布多遅比賣を妃にする倭武の曽孫の子の訶具漏比賣を纏向日代天皇が妃にする矛盾した記述をするが、倭武が襲名された名とすると、全く矛盾にあたらない。

和珥臣の系譜で尾張氏と物部氏を繋いだ建諸隅と武諸隅も、建諸隅は『舊事本紀』「紀伊國造智名曽妹中名草姫」と紀伊國造の妹の子で、『古事記』「娶木國造名荒河刀弁之女遠津年魚目々微比賣生御子豊木入日子」と豊城入彦の祖父も木國造、『舊事本紀』「弟大新河・・・紀伊荒川戸俾女中日女爲妻」「武諸遇連公新河大連之子」と木國造荒川戸俾の娘の子が武諸隅で、木國造を介して尾張氏建諸隅と物部氏武諸隅とが繋がって襲名された。

武諸隅は磯城瑞籬宮天皇六十年に出雲の神寶を検定して大連になっていて、父の大新河は纏向珠城宮天皇の時に物部連賜姓と矛盾しているが、大新河の妃が荒川戸俾の娘で、磯城瑞籬宮天皇の妃も荒川戸俾の娘なので、大新河は磯城瑞籬宮天皇の賜姓となり、その子の武諸隅の娘が纏向珠城宮天皇の時に賜姓された十市根の妃になって整合する。

すなわち、纏向珠城宮天皇は師木玉垣宮天皇で、師木宮六十年賜姓を纏向珠城宮と間違えた、時代の違う二人の伊香色雄を同じと考えて発生した間違いと考えられる。

これまで、述べたように、史書は一人の武諸遇が父・子・孫の三代若しくは祖父を入れた四代を一人と考えていて、建諸隅と武諸隅で一代20年と考えると最低でも160年間程度が建諸隅と武諸隅の活躍年代と思われ、この人物を一纏めにしたのが倭武()、この倭は天・八国で、荒川戸俾の娘の姉妹を娶った義兄弟の初代の武諸隅の大新河の兄弟の磯城天皇の皇太子の十市根が初代建諸隅の曽孫・皇弟の子の訶具漏比賣を娶れば全く矛盾とならない。

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