2022年6月6日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書6

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「如此逗留之間其所妊之御子既産故出其御子置稲城外令白天皇若此御子()天皇之御子所思齊()者可治賜於是天皇詔雖怨其兄猶不得忍愛其后故即有得后之心是以選聚軍士之中力士輕捷而宣者取其御子之時巧()掠取其母王或髪或手當随取獲而掬以控出尓其后有()豫知其情悉剃其髪以髪覆其頭亦腐玉緒三重纏手且以酒腐御衣如全衣服如此設備而抱其御子刺出城外尓其力士等取其御子即握其御祖尓握其()髪者御髪自落握其御手者玉緒且絶握其御衣者御衣便破是以取獲其御子不得其御祖故其軍士等還來奏言御髪自落御衣易破亦所纏御手之玉緒便絶故不獲御祖取得御子尓天皇悔恨而惡作玉人等皆奪取()地故諺曰不得地玉作也()天皇命詔其后言凡子名必母名何稱是子之御名尓荅白今當火焼稲城之時而火中所生故其御名宜稱本牟智和氣御子又命詔何爲日足奉荅白取御母定大湯坐若湯坐宜日足奉故随其后白以日足奉也又問其后曰汝所堅之美豆能小佩者誰解荅白旦波比古多多須美智宇斯王之()名兄比賣弟比賣茲二女王浄公民故宜使也然遂殺其沙本比古王其伊呂妹亦從也」、【この様に逗留しているうちに、妊娠した子は既に生み育ったので、子を稻城の外に出して、天皇に「もし子を、天皇の子と思うなら手元に置いてください。」と言った。それで天皇は「兄を怨んでも、后を愛しんで忍びない。」と言った。それで、后を得たいと思って兵士の中の力持ちで俊敏な者を選り集めて、「子を取る時、その母子共に奪い取れ。髮でも手でも、掴め取れるまゝに、掴んで引き出せ。」と言った。それで后は、もとからその気持ちを知っていて、残らず髮を剃り、その髮で頭を覆い、また玉の緒を腐食させて、三重を手に巻き、また酒で衣を腐食させ、普通の衣の様に着た。この様に備えて、子を抱いて、城の外に差し出した。それで、力持ち達は、子を受け取り、親を握った。しかし、髮を握れば、髮がポロッと落ち、手を握れば、玉の緒がチギレ、衣を握れば、衣は破れた。それで子を受け取れたが、親を得られなかった。それで、その兵士達は、帰って来て「髮がポロッと落ち、衣は簡単に破れ、また、手に巻いた玉の緒もちぎれた。それで、親を獲れず、子は受け取れた。」と言った。そこで天皇は悔み恨んで、玉を作った人達を憎み、その地を皆奪った。それで、諺に「玉作の土地を得た。」と言う。また天皇は、后に、「普通子の名は必ず母が名付けるが、子の名を付けろ。」と命じた。それに「今、火で稻城を焼いている時で、火の中で生れた。それで、名は本牟智和氣としましょう。」と答えた。また 「どうやって育てれば良いのか。」というと、「母代わりの養母を決めて育ててください。」と答えた。それで、后の言うままに育てた。また、后に「お前が堅めた美豆能小佩は誰が解くのか。」と問いかけると、「旦波比古多多須美智宇斯王の娘の、名は兄比賣、弟比賣、この二柱の女王が、穢れがない者だ。それを使ってください。」と答えた。それで遂に沙本比古王を殺したら、その妹も従った。】と訳した。

この戦いの勝者は、息長水依比賣の子の多多須美智宇斯王で政権を奪ったことを示し、活躍した人物は、第一が「上毛野君遠祖八綱田令撃狹穗彦」と上毛野君の遠祖八綱田で、上毛野君の祖は「豐城命令治東國是上毛野君・・・始祖」と豊城入彦で、豊城入彦の母が「紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼媛生豊城入彦」と遠津年魚眼媛、紀伊國荒河戸畔の孫が上毛野君の始祖、すなわち、遠津年魚眼媛が上毛野君の祖、紀伊國荒河戸畔が上毛野君の遠祖、紀伊國荒河戸畔が八綱田である。

そして、この戦いに付随して、當摩蹶速と野見宿禰が戦い、野見宿禰が勝って當摩蹶速の地を奪ったが、この當摩は但馬國造の祖の建田背・當麻坂上君の祖の彦坐王・多遲摩國造の祖の大多牟坂王と息長氏が領有し、淡海朝の勝利の説話で、その後、野見宿禰は土部臣、連ではなく臣を与えられ、物部連などの大和の朝廷では無い姓で、淡海朝崩壊後に連を賜姓されたようだ。

そして、恐らく「紀伊國・・・戸畔」は 紀伊国王を表すと思われ、「建斗禾命天戸目命之子此命紀伊國造智名曽妹中名草姫爲妻」、「建田背命神服連海部直丹波國造但馬國造等祖次建宇那比命此命城嶋連祖節名草姫生」と丹波国王の祖の建田背の弟建宇那比は父と同じく2代に渡って紀伊國造の娘を妃にし、建田背と建宇那比の子の建諸隅共に八綱田の候補で、建諸隅が有力である。

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