2022年6月13日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書9

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「又随其后之白喚上美知能宇斯王之女等比婆須比賣命次弟比賣命次歌凝比賣命次圓()野比賣命并四柱然留比婆須比賣命弟比賣命二柱而其弟王二柱者因甚凶醜返送本主於是圓野比賣慚言同兄弟之中以姿醜被還之事聞於隣里是甚慚而到山代國之相樂時取懸樹枝而欲死故号其地謂懸木今云相樂又到弟國之時遂堕峻淵而死故号其地謂堕國今云弟國也又天皇以三宅連等之祖名多遅摩毛理遣常世國令求登岐士玖能迦玖能木實故多遅摩毛理遂到其國採其木實以縵八矛將來之間天皇既崩尓多遅摩毛理分縵矛四竿()獻于太后以縵四縵矛四竿()獻置天皇之御陵戸而擎其木實叫哭以白常世國之登岐士玖能迦玖能木實持参上侍遂叫哭死也其登岐士玖能迦玖能木實者是今橘者也此天皇御年壱佰伍拾参歳御陵在菅原之御立野中也又其太后比婆須比賣命之時定石祝作又定土師部此后者葬狭木之寺間陵也」、【又、后の言うまゝに、美知能宇斯王の娘達、比婆須比賣、次に弟比賣、次に歌凝比賣、次に圓野比賣の四柱を召した。しかし比婆須比賣、弟比賣の二柱を留めて、その弟王二柱は、とても醜くかったので、本国に返し送った。それで圓野比賣は恥じて、「同じ兄弟の中で、姿が醜いので還された事は、近辺に知られるので、甚だ恥となる。」と言って、山代國の相樂に着いた時、樹の枝で首を吊った。それで、そこを懸木といったのを今は相樂という。また弟國に着いた時、とうとう急峻な淵に墮ちて死んだ。それで、そこを墮國と言い、今は弟國と言う。また、天皇は、三宅連の祖の、名は多遲摩毛理を常世の國に派遣して、いつでも香りを放つ実を求めさせた。それで、多遲摩毛理は、遂にその國に到って、その木實を採って縵に八つ、矛を八矛を持ってくる間に、天皇は崩じた。それで多遲摩毛理は、縵を四つ、矛を四矛分けて、大后に献上し、縵を四縵、矛を四矛天皇の陵の戸に献じて、その木實を捧げて、叫んで「常世の國のいつでも香りを放つ実を持って参上した。」と言って、とうとう叫び哭いて死んだ。そのいつでも香りを放つ実は、今の橘だ。この天皇の年は、153歳だった。陵は菅原の御立野の中に在り、大后の比婆須比賣の時、石祝作を定めて、また、土師部を定めた。この后は、狹木の寺間の陵に葬った。】と訳した。

私は常世の国が済州島と主張しているが、それは多遲摩毛理が持って来た橘が日本固有種と異なる種で、そのような種は高麗橘のみが日本の萩に自生しているので結論付けた。

もし、他の種が現れたら再検証すれば良く、また、高麗橘であれば、少なくとも、この説話の国は萩から但馬を領有した、畿内の暦を使う王の説話であることが証明される。

私の古代史研究の基本が、「中国文献は天文学的朔が正確なので正しい、『日本書紀』は中国文献の挿入年代が正しい、『日本書紀』は天文学的朔が正しいものと間違いのものがある、間違いは中国文献の朔の日が晦日から朔日に変化した影響によると考えられ、間違いの日干支は燕や漢の配下であった九州の黄海側にいた倭の記録が『朔が晦』だったからと推論でき、『日本書紀』は複数の王権の資料を当て嵌めたとき、当て嵌める場所を間違えた。中国の史書は直接の記録。日本の史書は寄せ集めの記録。」と言うことが解り、研究できた。

そして、もう一つが出土物で、この高麗橘を済州島で船に乗って直接学んで栽培したように、稲も河姆渡から熊本県本渡市の大矢遺跡に約5000~4000年前導入され、日本からは赤漆を船で輸出して稲作を学んで帰国したのであり、沖縄・奄美群島・朝鮮に稲の古い遺跡は見つかっていない。

河姆渡遺跡の住民が船に乗って伝播したとは考えにくく、稲の原産地の『西山經』、『南山經』・『海内經』の稲は「西南黑水之閒有都廣之野后稷葬焉」とあり、后稷は『大荒西經』で「帝俊生后稷」のように生まれ、中国の西の国から遷って来た人々が営んだ河姆渡遺跡の記述と考えられ、さらに、日本海東部の『海外東經』に稲が記述される。

稲がある『海外東經』の「黑齒國」は『大荒東經』にも記述され、日本海から太平洋岸まで勢力をもち、河姆渡遺跡と「黑齒國」の中間に籾殻跡が残る縄文土器が発掘される大矢遺跡があり、「黑齒國」は「君子國」の東北方にある。

帝堯が羲和に命じて暦を作った時、羲仲が分命されたが、羲仲は『尚書』「羲仲宅嵎夷曰暘谷」と暘谷に住む、島に住む夷人で「黑齒國」の北には湯谷があり、羲和の国は『大荒東經』・『大荒南經』と太平洋にあり、紀伊半島か房総半島の地域だ。

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