2022年6月10日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書8

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「即曙立王兎上王二王副其御子遣時自那良戸遇跛盲自大坂戸亦遇路()盲唯木戸是掖月之吉戸卜而出行之時毎到坐地定品遅部也故到於出雲拝訖大神還上之時肥河之中作黒巣橋仕奉仮宮而坐尓出雲國造之祖名岐比佐都美餝()青葉山而立其河下將獻大御食之時其御子詔言是於河下如青葉山者見山非山若坐出雲之石𥑎()之曽宮葦原色許男大神以伊都玖之祝大廷乎問賜也尓所遣御伴王等聞観()見喜而御子者坐檳榔之長穂宮而貢上驛使尓其御子一宿婚肥長比賣故竊伺其美人者蛇也即見畏遁逃尓其肥長比賣患光海原自舩追來故益見畏以自山多和引越御舩逃上行()於是覆奏言因拝大神大御子物()詔故参上來故天皇觀喜即返兎上王命()造神宮於是天皇因其御子定鳥取部鳥耳()部品遅部大湯坐若湯坐」、【それで、曙立王、菟上王の二王をその子に従わせて派遣した時に、那良戸から片足を引きずり、大坂戸からもまた片足を引きずって歩いた。唯、木戸は掖月の吉の戸と卜が出て着いた土地毎に品遲部を定めた。それで、出雲について、大神を礼拝し終わって還り上る時に、肥河の中に黒い巣橋を作り、仮宮で仕えていた。そこに出雲國造の祖の岐比佐都美は、青葉の山を飾って、その河下に立てて、大御食を献上する時に、その御子が「この河下に、青葉の山のようなのは、山に見えて山ではない。もし出雲の石の曾宮にいる葦原色許男大神が居ついて祀った大国の朝廷なのか。」と問うた。それで従って仕えていた王達は、聞いて喜んで、御子を檳榔の長穗宮に逗留して、驛使を貢上した。それでその御子は、一晩、肥長比賣と契った。それで、密かにその美人を見ると、蛇だった。それを見て畏れて逃げた。それでその肥長比賣は悩んで、海原を照らして船で追って来た。それで、益々それを見て畏れ、山のくぼみから船を引き越して逃げ上って行った。それで「大神を拜んだので、御子はしゃべった。それで、参上してきた。」と復命した。それで、天皇は歓喜して、菟上王を返して、神の宮を造らせた。そこで天皇は、御子に因んで、鳥取部、鳥甘部、品遲部、大湯坐、若湯坐を定めた。】と訳した。

この説話は『古事記』の神話の「神亦爲宇都志國玉神・・・於宇迦能山之山本於底津石根宮柱布刀斯理」を示し、出雲の地が宇都志國、すなわち、珍彦たちの出身地で、かつて三国・大国・筑紫・八国を支配した大神朝廷の帝の璽を盗られて衰退した宮殿跡を鎮魂し、宮を造らせ、形式上も三国朝廷が終焉したようだ。

出雲臣・土師連の祖が天穂日で野見宿禰は土師臣で土師連の祖、すなわち、この時点で出雲臣と土師連が分岐して、この宮を祀る出雲臣は権威で実態は中臣連の遠祖の中臣大鹿嶋が出雲を含む仲国の王になったことが解る。

それで、品牟都和氣は失脚して、朝廷も2つに分裂し、道主の朝廷は大和・丹波・播磨・吉備・仲国を支配し、淡海朝廷は三国・若狭・但馬・日本海・朝鮮半島を支配し、分裂前の朝廷に「阿倍臣遠祖武渟川別和珥臣遠祖彦國葺中臣連遠祖大鹿嶋物部連遠祖十千根大伴連遠祖武日」が中心人物で、武渟川別の子の品牟都和氣は品治部君だが、分裂した天皇の子の曙立王は伊勢の品遲部君で、この伊勢は野洲の伊勢遺跡の伊勢である。

品牟都和氣に代わって天皇になる弟彦に対して、大海部直の祖で八坂入彦の母は大海宿禰の娘の大海媛、すなわち、大国と淡海の女王で、弟彦は淡海國谷上刀婢の子、谷上刀婢は近淡海の御上の天之御影神の娘の息長水依比賣の可能性が高く、襲名した2代目弟彦の丹波道主と1代目弟彦の子の淡夜別の水之穗眞若なら理解できる。


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