『日本書紀』は続けて概略「四年秋九月丙戌が朔の戊申に、皇后の兄狹穗彦王が謀反を謀り、五年冬十月己卯が朔に、皇后が兄王の反状を奏し、上毛野君の遠祖八綱田に狹穗彦を撃たせ、稻城に狹穗彦が籠り、皇后も稻城に入って。後宮の事を丹波國道主王の娘、あるいは、彦湯産隅王の子に任せるよう言い残して死んだ。七年秋七月己巳が朔の乙亥に、當麻邑の當摩蹶速と出雲國の野見宿禰が相撲で戦い野見宿禰がかったので、當摩蹶速の地に野見宿禰に与え」、「十五年春二月乙卯朔甲子」・「八月壬午朔」に皇后の説話」がある。
『古事記』前川茂右衛門寛永版は「此天皇以沙本毗賣爲后之時沙本毗賣命之兄沙本毗古王問其伊呂妹曰敦愛夫與兄歟荅曰愛兄尓沙本毗古王謀曰汝寔思愛我者將吾與汝治天下而即作八塩折之紉(槽)小刀授其妹曰以此小刀刺殺天皇之寝故天皇不知其之謀而枕其后之御膝爲御寝坐也尓其后以紉(紐)小刀爲刺其天皇之御頸三度擧而尓忍哀情不能刺頸而泣涙落溢於御面乃天皇驚起問其后曰吾見異夢從沙本方暴雨零來急洽(沾)吾面又錦色小蛇纏繞我頸如此之夢是有何表也尓其后以爲不應爭即白天皇言妾兄沙本毗古王問妾曰敦愛夫與兄是不勝面問故妾荅曰愛兄歟尓誂妾曰吾與汝共治天下故當殺天皇云而作八塩折之紉(紐)小刀授妾是以欲刺御頸雖三度擧哀情忽起不得刺頸而泣涙落洽(沾)於御面必有是表焉尓天皇詔之吾殆見欺乎乃興軍撃沙本毗古王之時其王作(往)稲城以待戰此時沙本毗賣命不得忍其兄自後門逃出而納其之稲城此時其后妊身於是天皇不忍其后懐妊及愛重至于三年故廻其軍不急攻迫」、【この天皇は、沙本毘賣を后とした時、沙本毘賣の兄の沙本毘古が、その妹に、「夫と兄とどちらが愛しい。」と聞いたら、「兄が愛しい。」と答えた。そこで沙本毘古は、「お前が本当に私が愛しいなら、私とお前とで天下を治めよう。」と言って、それで八鹽折の紐小刀を作って、妹に授けて、「此の小刀で、天皇が寢たところを刺し殺せ。」と言った。それで、天皇は、その謀略を知らず、后の膝を枕に、寢ていた。それで后は紐小刀で、天皇の頚を刺そうとして、三度、振り上げたが、哀しい気持で忍びず、頚を刺すことができず、泣く涙が顔に落ち溢れた。それで天皇が驚いて起き、后に「私は変な夢を見た。沙本の方から激しい雨が降って来て、急に私の顔にかかった。また錦色の小さな蛇が、私の頚に纏わりついた。こんな夢は、何の験だろうか。」と言った。それで后は、争えないと思って、天皇に、「私の兄沙本毘古が、私に、『夫と兄とどちらが愛しい。』と言った。こう面と向かって聞かれると勝てないと思って、私は、『兄が愛しい。』と答えた。それで私に 私に頼んで、『私とお前で天下を治めよう。だから、天皇を殺せ。』と言って、八鹽折の紐小刀を作って私に授けた。これで頚を刺そうとして、三度振り上げたが、哀しき思いが起って、頚を刺せず、泣く涙が顔に落ち濡らした。きっとこのためでしょう。」と答えた。それで天皇は、「私は危うく騙されるところだった。」と言って、挙兵して沙本毘古を撃った時、その王は、稻城を作って待ちうけて戦った。この時、沙本毘賣は、我慢できずに兄の元に、裏門から逃げ出て、稻城に入った。この時、后は妊身していた。それで天皇は、后が懐妊しているのを愛しみ三年間我慢してから、軍を回して、急襲した。】と訳した。
沙本毗古は妹を天皇の妃にして、皇位を奪取しようと目論み、この時の天皇は子の名前が本牟智和氣すなわち品治部君と考えられ、品治部君の祖は「次彦小將箐命品治部君等祖彦湯産隅命」と大縣主すなわち大彦の孫の彦湯産隅で母が竹野姫、竹野姫は落国伝説を記述した姫だが『古事記』は弟国に着いたとき弟姫が堕ちて死んだから「墮國」と名付けたが、弟国で生まれたから弟姫で、意味が通らず、竹野姫伝説はそれ以前、彦湯産隅の母の伝説と錯覚しているようだ。
論理的に言うと、大彦の子が品治部君の祖の建沼河別・彦湯産隅でその子が品治部君・本牟智和氣となり、大毘古が高志道を撃ち、子の建沼河別が東方十二道に派遣された崇神天皇の説話の続きで、丹波道主の娘・日女が建沼河別の妃になることで、丹波多多須道主・襲名した建諸隅・倭得玉の子の弟彦が皇位を奪ったことを示している。
この後で朝廷が分裂し、建沼河別の兄弟と思われる御眞津比賣・大伊賀姫の夫の倭得玉彦・坐王の子の丹波道主と苅幡戸辨・摩須郎女の子の祖別・朝廷別・落別が分裂し、建沼河別の子が大和の品治部君と退位し、落別の子の一人の曙立王が淡海の伊勢の品治部君と二人の品治部君が記述された。
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