2022年6月24日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書14 氏族1

  前項では、物部氏と和珥臣の関係を述べたが、その他にも興味深い氏族が存在し、その氏族の1つが、上毛野君である。

上毛野君の始祖は『日本書紀』「豐城命令治東國是上毛野君下毛野君之始祖也」と豐城だが、豐城は「紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛」とあるように、遠津氏の子でもあり、遠津氏は『古事記』の須佐之男と稻田宮主の娘との子の八島士奴美、すなわち、周饒國の皇子と君子国の姫の子の八国王から17世続く神の最後の天狹霧の子の遠津山岬帶の子孫と考えられ、八国の王家のようだ。

それは、豐城の孫が『舊事本紀』「能等國造志賀髙穴穗朝御世活目帝皇子大入來命孫彦狹嶋命定賜國造」・「上毛野國造瑞籬朝皇子豊城入彦命孫彦狹嶋命初治平」、『日本書紀』「以彦狹嶋王拜東山道十五國都督」とあるように、狹霧の領地の狹嶋・若狭を含む能登など15国を領有して、狭嶋は淡道御井宮天皇の和知都美の娘の蝿伊呂杼の子も狹嶋で海直の祖と淡海の王で、すなわち、和知都美は遠津氏の姫を妃にして蝿伊呂杼を生んだと考えられ、和知都美は襲名した近淡海國造の祖の天押帶日子・天忍人である。

以前、倭迹迹姫と少彦建猪心の『古事記』と『日本書紀』の違いから倭迹迹稚屋姫と彦太忍信の子が屋主忍男武雄心と推理したが、その推理から、遠津氏の八国王家を和知都美が継承し、和知都美の娘の絚某姉の子の倭迹迹稚屋姫、その子の屋主忍男武雄心、すなわち、襲名した彦太忍信と考えられる。

同様に、『古事記』「比古布都押之信命娶尾張連等之祖意富那毗之妹葛城之高千那毗賣生子味師内宿祢」、『 舊事本紀 』「倭得玉彦命亦云市大稲日」と彦太忍信の妃が尾張連の祖の大稲日・倭得玉彦の妹なのだから、彦太忍信の妹が大稲日の妃も有り得て、それが、近淡海の天之御影・倭迹迹稚屋姫の娘の息長水依・淡海國谷上刀婢と考えられ、その子が安直の祖の水之穗眞若、また、荒河刀辨の娘は大新河にも嫁ぎ、子が武諸遇で、大稲日の父が建諸隅・荒河刀辨で、建諸隅・武諸遇の接点となって襲名されている。

ところが、大稲日・坐王と弟袁祁都比賣の子の山代之大筒木眞若の子の迦迩米雷は息長氏とつながらないが、遠津臣の娘との子が息長宿禰と息長氏を名のり、遠津臣の氏が息長と解り、息長水依・水之穗眞若(豐城)・娘高材比賣・息長宿禰と受け継がれたと考えられる。

彦狹嶋の祖父は豊城と大入來で、大入來は『舊事本紀』では「活目帝皇子大入來命」と活目帝の皇子とあるが、『古事記』に「師木水垣宮治天下也此天皇・・・生御子大入杵」とあるように、崇神の子で、『日本書紀』に記述されず、どちらにしても矛盾しているが、垂仁朝の纏向朝廷と師木玉垣朝廷に起因していると考えられる。

恐らく、大入杵の娘が豐城の子の意富多牟和氣の妃になって、その子が彦狹嶋と考えられ、そうすると、豐城と迦迩米雷が同世代なので、「妹豊鋤比賣命者拝祭伊勢大神之宮」と淡海の伊勢にいて、豊鋤比賣が高材比賣と考えられ、迦迩米雷は大入杵の兄弟、八国の坂の王と思われる八坂之入日子の可能性が高い。

『古事記』「娶近淡海之安國造之祖意富多牟和氣之女布多遅比賣生御子稲依別王」、「伊玖米天皇之女布多遅能伊理毗賣命生御子帯中津日子命」、『日本書紀』「兩道入姫皇女爲妃生稻依別王次足仲彦天皇」、「母皇后曰兩道入姫命活目入彦五十狹茅天皇之女」と地位に矛盾があるが、布多遅比賣の父は纏向珠城天皇ではなく師木玉垣天皇で、孫が近淡海の志賀高穴穗宮天皇、「淡海國造志賀髙穴穗朝御世彦坐王三世孫大陀牟夜別定賜國造」と淡海朝廷の淡海王すなわち天皇の大陀牟夜別で、坐王三世孫、すなわち、坐王、子水之穗眞若・豊城、2世孫師木天皇の意富多牟和氣・師木登美豊朝倉曙立王、3世孫大陀牟夜別で、師木天皇水之穗眞若と纏向天皇弟彦が分裂し、八坂入比賣の子の大陀牟夜別が遷都し八坂入比賣の兄弟の息長宿祢に政権が遷って、彦狹嶋が上毛野君となった。


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