2022年6月1日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書4

  前回に続いて、燕の影響下でなかった朝鮮は燕の衛氏が侵略し、衛氏が滅びると、北部朝鮮は『漢書・ 地理志 第八』に「燕・・・上谷至遼東・・・北隙烏丸夫餘東賈真番之利玄菟樂浪武帝時置皆朝鮮濊貉句驪蠻夷殷道衰箕子去之朝鮮」と燕の支配地の朝鮮を記述し、玄菟、樂浪、濊、貉、句驪の地が箕子朝鮮の領域だったと記述、燕の支配下として黄海・東シナ海に倭人もいた。『漢書 西南夷兩粵朝鮮傳』にも燕の満が朝鮮王となり、「滿得以兵威・・・眞番臨屯皆來服屬方數千里」と大きく見積もって約250Km四方、現代の北朝鮮の領域を得たと記述され、「遂定朝鮮爲眞番臨屯樂浪玄菟四郡」と前漢朝によって滅ぼされて郡に統治された。

そして、『後漢書』には「朝鮮王准為衛滿所破・・・自立為韓王准後滅絶馬韓人復自立為辰王建武二十年韓人廉斯人苏馬諟等詣樂浪貢獻光武封苏馬諟為漢廉斯邑君」と衛の官吏が前200年頃韓王を名乗ったが絶滅し、馬韓人が辰王を名乗り西暦44年に廉斯邑君と漢の配下となったと記述する。

しかし、衛滿と闘った時は韓王で、そのころ、「眞番辰國欲上書見天子・・・元封二年」と前109年に既に辰国が存在し、『三国史記』で「温祚王・・・國號十濟是前漢成帝鴻嘉三年也」と前18年に百濟を建国していて、しかも、「元年夏五月立東明王廟」と扶余国王の後継者と記述し、建国地は扶余で高句麗と王位を争った可能性が高い。

百濟は温祚王三年秋九月靺鞨侵北境」、「國家東有樂浪北有靺鞨と前16年にはまだ靺鞨と北辺が接していて、東は樂浪郡で扶余の地に高句麗と共に玄菟郡に居て、「獲神鹿以送馬韓」と馬韓に贈り物をしていて、別国と解り、前6年十三年「遣使馬韓告遷都」、西暦9年二十七年「馬韓遂滅と馬韓を征服して、それ以前は「眞番辰國」配下の馬韓が存在し、百濟も辰配下の王と考えられ、中国も秦配下の馬韓と晋朝まで呼び続けている

新羅は前57年に赫居世居西干が建国し、「辰人謂瓠爲朴・・・爲姓居西干辰言王」と辰国人が朴姓を賜姓し辰国では新羅王を王と呼んでいたと記述し、前28年垂仁2年には「樂浪人將兵來侵」と楽浪郡が侵略して来て、日本に援助を求めたと考えられ、前20年に瓠公は馬韓に「我國自二聖肇」と聖人二人で国が始まったと、すなわち、赫居世居西干も辰王も聖人だと述べて、東沃沮の使者も赫居世居西干を「聞南韓有聖人出」と認めている。

そして、赫居世居西干は建国時前57年13歳で垂仁2年に長男が20歳前後と考えられ、南解次次雄は弟の長男なら、赫居世居西干六十一年には30歳程度、21年在位で50代で死亡なら、次の儒理尼師今が34年在位と長く矛盾はなく、新羅の最初の記録の「四年夏四月辛丑朔日有食之」は天文学的朔で、この頃、漢は晦を朔の日に記述し、『漢書』にも同じ日の記事があるが「五鳳四年夏四月辛丑晦日有蝕之」と晦の朔を記述し、新羅の最初の資料は畿内の資料と考えられ、その後、『漢書』の資料を使用している。

このように、辰韓の新羅は淡海政権と友好関係を保ち、燕の配下だった扶余族が南下し、倭が新羅を侵略する為、「新羅王子天日槍」が「近江國吾名邑」に住み、「天之日矛・・・泊多遅摩國即留其國而娶多遅摩之俣尾之女名前津見生子多遅摩母呂須玖此之子多遅摩斐泥此之子多遅摩比那良岐此之子多遅麻毛理次多遅摩比多訶・・・娶其姪由良度美生子葛城之高額比賣命此者息長帯比賣命之御祖」と但馬國に定住し、子孫が神功皇后の親になったように、淡海王朝を頼って援助を依頼した。

倭は畿内政権の分裂を好機と、縁がある扶余と組んで3韓の地の支配を目論んだのが、新羅への侵略と、熊襲の反乱と考えられ、百濟は西暦9年『三国史記』「温祚王二十七年夏四月二城降移其民於漢山之北馬韓遂滅・・・二十八年春二月立元子多婁為太子」と日本の朝廷の様式と同じく、王と太子がワンセットの倭国と同じ風習の王朝が成立し、新羅は6世紀の真興王から立太子の記述が始まり、新羅は畿内朝廷と同様に、王が決まると自動的に太子が決まったようだ。

すなわち、倭は天皇が20歳以上で、13歳以上の男の太子がいないと、弟や義弟が太子となって首都が変わる王朝交代が起こるが、畿内朝廷は天皇(皇后)が決まれば同じ首都に住む長男・長女の夫・皇后の兄弟が太子となって、互いの子の間で婚姻していたようだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿