2019年8月19日月曜日

最終兵器の目 垂仁天皇6

 『日本書紀』慶長版は
二十五年春二月丁巳朔甲子詔阿倍臣遠祖武渟川別和珥臣遠祖彥國葺中臣連遠祖大鹿嶋物部連遠祖十千根大伴連遠祖武日吾大夫曰我先皇御間城入彥五十瓊殖天皇惟叡作聖欽明聰達深執謙損志懷沖退綢繆機衡禮祭神祇剋巳勤躬日慎一日是以人民富足天下太平也今當朕世祭祀神祇豈得有怠乎三月丁亥朔丙申離天照大神於豊耜姫命託于倭姫命爰倭姫命求鎮坐大神之處而詣菟田筱幡更還之入近江國東廻美濃到伊勢國時天照大神誨倭姫命曰是神風伊勢國則常世之浪重浪歸國也傍國可怜國也欲居是國故隨大神教其祠立於伊勢國因興齋宮于五十鈴川上是謂磯宮則天照大神始自天降之處也 二十六年秋八月戊寅朔庚辰天皇勅物部十千根大連曰屢遣使者於出雲國雖檢校其國之神寶無分明申言者汝親行于出雲宜檢挍定則十千根大連挍定神寶而分明奏言之仍令掌神寶也
【二十五年の春二月の朔が丁巳の甲子の日に、阿倍臣の遠祖の武渟川別・和珥臣の遠祖の彦國葺・中臣連の遠祖の大鹿嶋・物部連の遠祖の十千根・大伴連の遠祖の武日の五人の大夫に「私の先の天皇の御間城入彦五十瓊殖天皇が、思うに、悟り深い聖人で、 つつしみ深く物を見通す力があり思慮深くかしこい。心に秘めた信念もたかぶらないで冷静に退いた。 むつみあい、物事を知り、神祇を禮祭した。己に厳しく、身を案じ、一日一日を慎重に過ごした。これによって、人民の富を充足させ、天下太平だった。今、私の世になって、神祇を祀ることをどうして怠ることが出来ようか」と詔勅した。三月の朔が丁亥の丙申の日に、天照大神の斎王を豐耜入姫命から、倭姫命に交代させた。倭姫命は、大神を鎮め祀るところを求めて、菟田の筱幡についた。さらに近江國に帰り入国して、さらに東の美濃を廻って、伊勢国についた。その時に天照大神が、倭姫命に「この神風の伊勢国は、常世の浪が幾重も寄せ来る国だ。近傍の国で尊い国だ。この国に居たい」と諭して言った。それで、大神の教えどおりに、大神の祠を伊勢国に立てた。それで齋宮を五十鈴の川上に建てた。これを磯の宮という。すなわち天照大神が始めて天より降った所だ。二十六年の秋八月の朔が戊寅の庚辰の日に、天皇は、物部十千根大連に「しばしば使者を出雲国に派遣したが、その国の神宝を見分したが、はっきり見分けたという者がいない。お前自ら出雲に行って、見分けて決めてきなさい」と詔勅した。すなわち十千根大連は、神宝を比べて価値を考えて、はっきり見分けて奏上した。それで神宝を管理した。】とあり、干支は標準陰暦と合致する。
『舊事本紀』「弟十市根命此命纏向珠城宮御宇天皇御世賜物部連公姓元為五大夫」とあるように、このとき、物部氏を賜姓され、完全に天皇家ではなくなり、「大彥命遣北陸武渟川別遣東海」の武渟川別、「先射武埴安彥先射彥國葺」の彥國葺と半世紀以上前に活躍した人物を記述しているので、襲名したということが解り、この天皇は尾張氏の纏向の地で日葉酢媛の正真正銘の皇子となって尾張氏の天皇となったことを宣言した。
そして、前朝廷の意思を継いで、垂仁天皇も宗廟を守ることを宣言し、前朝廷の斎王の「紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛生・・・豊鍬入姫命」と垂仁朝では紀伊国の王に降格した前の王朝の王の娘豐耜入姫から、皇后の娘の倭姫に交代させ、菟田→近江→美濃→伊勢と廻って大神を祀る場所を探している。
この説話の出発地が菟田というのは奇妙で、菟田ならすぐ隣が伊勢で遠回りする必要がないが、丹波の王家なのだから、古さはよくわからないが敦賀にも皇大神宮があり、近江には伊勢も皇大神宮もあって伊勢遺跡は祭祀遺跡で、美濃にも古さは解らないが安八郡に皇大神宮ある。
さらに、『古事記』の本牟智和氣と「率遊其御子之状者在於尾張之相津二俣椙作二俣小舟」と遊んだ相津はおそらく岐阜県の岐阜市で、長良川西岸に墨俣があり、津島や生津など古代は岐阜市まで海で「大毗古命者随先命而罷行高志國尓自東方所遣建沼河別與其父大毗古共往遇于相津」とあるように、東海道と北陸道が交わる場所だ。
『猿投神社所蔵尾張国養老元年之図』には現代川岸でも海岸でもない場所に津があり島があり岬がある場所の近辺が海として記述されていて、権現などの地名が記述されるため勝ち誇ったように偽書という者もいるが、史書とよく符合して、例えば「佛」をブッダとしているが、いるが「ほとけ」は古語で、前漢の劉向によって撰せられた『列女傳』卷6に「趙佛肸母者趙之中牟宰佛肸之母也佛肸以中牟叛」とあり、佛肸は春秋時代の中国の人名で中国には後漢時代に仏教が導入されている。
尾張地域は戦国時代も沼地が多く、犬山扇状地は木曽川が海に流れ出た場所で、古い神社や古墳は島と名がつく場所に多く、偽書の証拠としているのは、意味が変わったり、書写者が書写時に物知り顔に小賢しく書き換えた可能性も否定できず、逆に元時代の古地図は中国以外が異様に大きく描かれてこれも間違いで済ましている。
しかし、これは情報の少なさが原因で、中国は1里400m、それ以外が1里50mの情報で記述されているからで、中国の文献に対する真摯さがわかり、それに対して、日本はいとも簡単に現代の感覚で内容を変質させる研究家が多く、江戸城が東京城で中国のDōngjīng政府の出城などと言いだすことが無い事を祈る。
日本と朝鮮の交流史も、日本が『日本書紀』を偽史としたため、『日本書紀』の朝鮮関係の資料も朝鮮に都合が悪いところは偽りとして、『日本書紀』の倭は大和にして地域名と決めつけ、『三国史記』の倭の侵略を、海賊の仕業と決めつけているが、根本は、日本が『日本書紀』を軽く扱ったための結果である。

0 件のコメント:

コメントを投稿