2019年8月5日月曜日

最終兵器の目 崇神天皇9

 『日本書紀』慶長版は続けて
於是甘美韓日狹鸕濡渟參向朝廷曲奏其狀則遣吉備津彥與武渟河別以誅出雲振根故出雲臣等畏是事不祭大神而有間時丹波氷上人名氷香戸邊啓于皇太子活目尊曰己子有小兒而自然言之玉菨鎮石出雲人祭真種之甘美鏡押羽振甘美御神底寶御寶主山河之水沐御魂靜挂甘美御神底寶御寶主也是非似小兒之言若有託言乎於是皇太子奏于天皇則勅之使祭六十二年秋七月乙卯朔丙辰詔曰農天下之大本也民所恃以生也今河內狹山埴田水少是以其國百姓怠於農事其多開池溝以寛民業冬十月造依網池十一月作苅坂池反折池六十五年秋七月任那國遣蘇那曷叱知令朝貢也任那者去筑紫國二千餘里北阻海以在鶏林之西南天皇踐祚六十八年冬十二月戊申朔壬子崩時年百二十歲明年秋八月甲辰朔甲寅葬于山邊道上陵
【それで、甘美韓日狹と鸕濡渟が、朝廷に参上して、つぶさにその様子を奏上した。それで吉備津彦と武渟河別とを派遣して、出雲振根を誅殺した。それで、出雲臣等は、この事に畏れて、大神を祭らない時が有った。ある時、丹波の氷上の氷香戸邊という者が、皇太子の活目尊に「私の子に、幼子がいる。それで、思いつくままに玉菨(玉のようにまとまったアサザ )は石の流れを緩やかにし、出雲人が祭る、皇統の証の甘美鏡。勢いを後押しする甘美御神、底寶御寶主(大貴巳の「太立宮柱於底磐之根」の宮宝、主は大国主に就任した大貴巳)。山河で沐浴する御魂は静かに水をかける。甘美御神は底寶御寶の主だ。これは幼子の言葉とは思えない。または、かこつけて言ったのか」と言上した。そこで、皇太子は、天皇に「ですから祀るよう詔勅してください」と言上した。六十二年の秋七月の朔が乙卯の丙辰の日に、「農作は天下の大本だ。民が頼りとして生きるものだ。今、河内の狭山の埴田には水が少ない。それで、その国の百姓は、農作業を怠っている。それで沢山、池や溝を造って、民の生業を拡大しろ」と詔勅した。冬十月に、依網の池を造った。十一月に、苅坂の池・反折の池を造った。六十五年の秋七月に、任那の国に、蘇那曷叱知を派遣して、朝貢させた。任那は、筑紫国を去ること百Km程度北だ。海を隔てて鷄林の西南に在る。天皇は、天子の位を引き継いで六十八年の冬十二月の朔が戊申の壬子の日に崩じた。この時、年百二十歳だった。翌年の秋八月の朔が甲辰の甲寅の日に、山の辺の道の上の陵に葬った。】とあり、六十八年十二月は標準陰暦と合致し、六十二年七月乙卯朔は7月2日で6月は小の月なので、大の月なら7月1日に、また、垂仁天皇元年秋八月甲辰朔も8月2日で7月は小の月だ。
出雲は「珍彥爲倭國造」と倭国造珍彦の娘と思われる倭國香媛の子の吉備津彦と、「其兄大毗古命之子建沼河別命者」と大彦の子の武渟河別が出雲を滅ぼし、そして、出雲臣と呼ばれた物部氏と事代主の末裔の大田田祢古が『舊事本紀』に「亦名大直祢古命此命出雲神門臣女美氣姫為妻」と大国の王と呼ばれた人物がこの崇神王朝の末に集まっていて、十市根の弟の物部氏ではなく建氏の建新川が志紀縣主祖と弟磯城に思え、この時、物部氏と尾張氏と大神君が「たけ」氏を名乗り、義兄弟となったと考えられる。
そして、『舊事本紀』に「建田背命神服連海部直丹波國造但馬國造等但次建」と尾張氏建諸隅の従弟が丹波国と但馬国の国造となり、妹大海姫は「此命礒城瑞籬宮御宇天皇立爲皇妃」と皇妃となり、義父大諸見足尼は「葛󠄀木直祖大諸見足尼女子諸見巳姫生一男妹大海姫命亦名葛󠄀木髙名姫命」と葛城王に出世し、この時は禰宜を統括していた人物と思われる。
『日本書紀』は不思議なことに、ここまで朝鮮半島での戦いを全く記述しないのに、ここで唐突に任那国説話が出現するけれども、神話時代には『出雲風土記』には「栲衾志羅紀乃三埼矣國之餘有耶見者國之餘有」と新羅を領地にし、素戔嗚も新羅に渡ったと記述があるように六合の地の大人国・大国では新羅が領地で、その大国が国譲りで出雲に都を遷し、出雲が辰国として朝鮮半島で漢と戦っていたのである。
『後漢書』に「馬韓人復自立為辰王」と以前からあった辰国を新羅が辰王として独立し、大国の力は漢との戦いで勢力が弱まったが影響力は残したようで、『三国史記』には「辰人謂瓠爲朴」・「新羅稱王曰居西干。辰言王也」と辰人の関与が記述される。
『後漢書』に「辰韓耆老自言秦之亡人・・・有似秦語」と記述しているが、秦語を中国語としていないことは不可解で、勿論朝鮮語なら特段記述する必要もなく、秦韓ではなく辰韓と記述されるのだから辰人を秦人と置き換えたようで、弁辰が「其國近倭」と辰人は倭に近いと記述している。
また、『宋書』の古歌の中に「日出東南隅,照我秦氏樓。秦氏有好女,自名為羅敷。羅敷喜蠶桑,采桑城南隅・・・頭上倭墮髻」と日本の太平洋側の東南隅に秦氏が楼閣を持っていて自分を「らふ」と呼んで養蚕を行っていたと記述し、羅敷は戦国趙の女と言われていて、戦国以降の歌とわかる。
ところが、倭風の髻していると歌っているのを見て、また、日の出る所を見て、本来なら中国国内とは思わない、すなわち、宋すなわち5世紀の王朝にとって、畿内政権を秦氏の王朝と認識し、『後漢書』の時代から秦氏と呼ばれていたと考えると辻褄が合い、中国語でない秦語は日本の秦氏の言葉、日本の秦氏の亡人で、太秦はこの秦氏が住んでいたところである。
もし、徐福の末裔などと主張する人物が出るかもしれないが、楼閣を持つまでに出世していたのなら、伝説では済まないし、趙は戦国のどの国から見ても日の出る方向でもなく、東南隅でもなく、日本が日の出る国だから『随書』で俀国が日の出る国と書いた。
その、出雲の分家の物部氏が出雲を破って辰国を継承したのだから弁辰・任那は崇神王朝が関与して漢と対抗することは自然の流れで、それに対して、『後漢書』に「自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國」と三十余国を率いる漢と同盟した倭奴国と七十余国を従える漢と敵対して新羅を支援する大国が存在した。
『三國史記』始祖赫居世に「八年 倭人行兵 欲犯邊 聞始祖有神德 乃還」と紀元前50年に漢と協力した倭国が新羅を攻撃し、任那国は『三国志』に「其北岸狗邪韓國七千餘里」と漢が倭奴国に任那領有を認め、それが、振根の筑紫訪問で、大国の力が弱体化して筑紫と畿内とどちらにつくかの争いがあって、大国王朝が終焉したのだろう。

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