2019年8月23日金曜日

最終兵器の目 垂仁天皇8

 『日本書紀』慶長版は
二十七年秋八月癸酉朔己卯令祠官卜兵器爲神幣吉之故弓矢及横刀納諸神之社仍更定神地神戸以時祠之蓋兵器祭神祇始興於是時也是歳興屯倉于來目邑二十八年冬十月丙寅朔庚午天皇母弟倭彥命薨十一月丙申朔丁酉葬倭彥命于身狹桃花鳥坂於是集近習者悉生而埋立於陵域數日不死晝夜泣吟遂死而爛臰之犬烏聚噉焉天皇聞此泣吟之聲心有悲傷詔群卿曰夫以生所愛令殉亡者是甚傷矣其雖古風之非良何從自今以後議之止殉三十年春正月己未朔甲子天皇詔五十瓊敷命大足彥尊曰汝等各言情願之物也兄王諮欲得弓矢弟王諮欲得皇位於是天皇詔之曰各冝隨情則弓矢賜五十瓊敷命仍詔大足彥尊曰汝必継朕位三十二年秋七月甲戌朔己卯皇后日葉酢媛命薨臨葬有日焉天皇詔群卿曰從死之道前知不可今此行之葬奈之爲何於是野見宿祢進曰夫君王陵墓埋立生人是不良也豈得傳後葉乎願今將議便事而奏之則使者喚上出雲國之土部壹伯人自領土部等取埴以造作人馬及種種物形獻于天皇曰自今以後以是土物更易生人樹於陵墓爲後葉之法則天皇於是大喜之詔野見宿祢曰汝之便議寔洽朕心則其土物始立于日葉酢媛命之墓仍号是土物謂埴輪亦名立物也仍下令曰自今以後陵墓必樹是土物無傷人焉天皇厚賞野見宿祢之功亦賜鍛地即任土部職因改本姓謂土部臣是土部連等主天皇喪葬之縁也所謂野見宿祢是土部連等之始祖也
【二十七年秋八月の朔が癸酉の己卯の日に、祠官に令じて、武器を御神幣に出来るか占わせると、吉と出たので、弓矢や横刀を、多くの神社に奉納した。それで更に神地・神戸を定めて、いつも祀った。おそらく武器で神祇を祭ることはこの時に起こったのだろう。この歳に、屯倉を來目邑に興した。二十八年の冬十月の朔が丙寅の庚午の日に、天皇の母弟の倭彦命が薨じた。十一月の朔が丙申の丁酉の日に、倭彦命を身狹の桃花鳥坂に葬むった。そこに、近習者を集めて、みんな生きたまま陵域に埋めた。日数が経っても死なずに、昼夜を問わず呻き泣いた。そして死んで腐って臭った。犬や烏が群がった。天皇は、この呻き泣く声を聞いて、心を傷めた。群卿に「彼らは生きている時に寵愛されたから、亡者に殉じたのは、はなはだ傷ましい。それが昔からの風習といっても、良くないのにどうして従うのか。これから後、相談して殉死はやめろ」と詔勅した。三十年の春正月の朔が己未の甲子の日に、天皇は、五十瓊敷命・大足彦尊に「お前たち、それぞれの心から欲しい物を言え」と詔勅した。兄王は「弓矢が欲しい」と返事した。弟王は「皇位が欲しい」と返事した。そこで、天皇は、「お前たちが思うままにしなさい」と詔勅した。それで弓矢を五十瓊敷命に賜った。それで大足彦尊に「お前は必ず私の位を継げ」と詔勅した。三十二年の秋七月の朔が甲戌の己卯の日に、皇后の日葉酢媛命が薨じた。葬るまでにまだ日が有った。天皇は、群卿に「殉死の決まりを、前から良くないことを知っていた。今回葬るにあたり、何とかできないか」と詔勅した。そこで、野見宿禰が、進みでて「君主の陵墓に、生きたまま埋めるのは、良くない。どうして後代に伝えることが出来ましょうか。出来ましたら今ここで事の是非について論じて意見を奏上しましょう」と言った。それで、使者を派遣して、出雲國の土部を百人を呼んで、土部等を使って、埴を取って人・馬及びもろもろの物の形を造って、天皇に献上して、「これから以後、この土製の物で生きた人の代わりに、陵墓に並べて、これを後の世の決まりとしましょう」といった。天皇は、それで、大変喜んで野見宿禰に「お前のうまい結論は、本当に私の心に叶う」と詔勅した。それでその土製の物を、はじめて日葉酢媛命の墓に並べた。それでこの土製の物を埴輪と名付けた。または立物と名付けた。それで「これから、陵墓に必ずこの土製の物を並べて、人を害うな」と命じた。天皇は、野見宿禰の論功を手厚く褒めたたえて、鍛を司る土地を賜与した。すなわち土部の職に任命した。それで元の姓め改めて、土部臣と言った。これが、土部連等が、天皇の喪葬を司る由縁だ。いわゆる野見宿禰は、土部連等の始祖だ。】とあり、二十七年秋八月癸酉朔は8月2日で7月は小の月、大の月なら合致し、他の日干支の標準陰暦と合致する。
「兵器爲神幣」とこの時期から武器を奉納して祭祀をしたのだから、これ以前は武器以外で祭祀をしていたということで、銅鐸祭祀によく符合し、渟葉田瓊入媛の子「鐸石別」は銅鐸の鋳型を連想でき、これ以降に銅鐸が出土する地域は纏向朝廷と異なる朝廷の国だとわかる。
しかし、年代は邪馬台国畿内説が邪魔をして、考古学的年代判定が歪められているような気がして、それは、纏向が『日本書紀』では紀元前28年から西暦130年まで都で、「天皇崩於高穴穗宮時年一百六歳」とさらに46年間続いた可能性もある。
纏向から出土した桃の種が「纒向学研究センター研究紀要『纒向学研究第6号』」によると「モモの核が形成された年代として、C14年代はほぼ1810 BPから1840 BP(平均値として1824±6 BP)が得られた。 また、較正暦年代は西暦135年から230年のほぼ100年間 のどこかということになる。」と発表されたが、測定法の誤差が100年としたのだから、普通に考えれば西暦180年頃の種で卑弥呼の種と無関係、新聞はさらに徳島県教育委員会の150年(100~250)の誤差がある「うり」を持ち出して畿内説を補強して、マスコミのミスリードが目に付く。
データ誤差がごくわずかでも、C14の校正曲線は80~120年と130年~230年、さらに240年から330年の同定はほとんど意味をなさない曲線で、出た数値が正しくてもいつなのか決まらないデータ曲線で、100年間どの年でも間違いではないのである。
さらに、三角縁神獣鏡に「景初4年鏡」と日本で正始元年初頭に作成したとしなければ理解不能な鏡が有り、それ以前から三角縁神獣鏡が作成されていたと考えざるを得ない。
そして、この頃から殉死が問題になったのは、それ以前は墳墓自体が小さく、殉死者が少人数だったのが、造るのに時間がかかるほどの大きな陵墓にしたから殉死者が多人数となり、悲鳴と悪臭に耳をふさぐほどになったことを示し、卑弥呼の陵墓と同程度以上の陵墓だった可能性があり、崇神天皇時に池を作っていて、その残土を盛った墳丘を陸墓としたのではないか。
そして、殉死にかえて埴輪を始めた「野見宿禰」は丹波の王者の配下となったが、出雲出身で、この説話は『古事記』にも『舊事本紀』にも記述されず、おそらく、出雲の説話で出雲国の土部は人面付什器や陶塤が出土した西川津遺跡も有力地域だ。

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