2019年9月2日月曜日

最終兵器の目 垂仁天皇11

 『日本書紀』慶長版は
九十年春二月庚子朔天皇命田道間守遣常世國令求非時香菓今謂橘是也九十九年秋七月戊午朔天皇崩於纏向宮時年百四十歲冬十二月癸卯朔壬子葬於菅原伏見陵明年春三月辛未朔壬午田道間守至自常世國則齎物也非時香菓八竿八縵焉田道間守於是泣悲歎之曰受命天朝遠往絶域萬里蹈浪遙度弱水是常世國則神仙祕區俗非所臻是以往來之間自經十年豈期獨凌峻瀾更向本土乎然頼聖帝之神靈僅得還來今天皇既崩不得復命臣雖生之亦何益矣乃向天皇之陵叫哭而自死之群臣聞皆流淚也田道間守是三宅連之始祖也
【九十年の春二月の庚子の朔に、天皇は、田道間守に常世国に行って、季節外れの香のよい菓実を探すよう命じた。今、橘というのがこれだ。九十九年の秋七月の戊午の朔に、天皇が、纏向宮で崩じた。この時の年齢は百四十歳だった。冬十二月の朔が癸卯の壬子の日に、菅原の伏見の陵に葬った。翌年の春三月の朔が辛未の壬午の日に、田道間守が、常世國から帰ってきた。それでもたらした物は、季節外れに香る菓実の苗木八竿と接ぎ木の蔓?八つだった。田道間守は、その場で、泣き悲しんで「命令をを天皇から受け、遠く万里(五百Km)かけ離れた所に行った。荒波をかき分けて、また、緩やかに揺れる海を渡った。この常世の國は、神仙が隠れる区域で、俗人が行くところではない。それで、行き来で自然と十年経った。どうして、私一人が高く波立つのを凌いで本土に帰るまで待っていてくれなかったのだろうか。しかし聖帝の神霊のおかげで、やっと帰りき来ることが出来た。今、天皇は既に崩じた。復命できない。私が生きて帰ったが、何の為なのか」と嘆いて言った。それで天皇の陵に向って、叫んで泣いて自害した。群臣はこれを聞いて皆涙を流した。田道間守は、これ三宅連の始祖だ。】とあり、三月辛未朔は2月30日で、九十九年七月戊午朔は全く合致せず、それ以外は標準陰暦と合致する。
この天皇の死亡日は垂仁王朝以外の王朝の天皇の死亡日が紛れ込んだ可能性が有り、11年78年がその候補である。
田道間守の橘は済州島と萩に自生するコウライタチバナがその候補で、済州島から海路で万里・魏の単位で500Kmの都はというと、萩の隣の長門の国には神功皇后が宮を置いた。
『山海經 海外南經』には「六合之閒四海之內照之以日月經之以星辰紀之以四時要之以太歲神靈所生其物異形或夭或壽唯聖人能通其道」と「常世國則神仙祕區」は神霊が生まれて、聖人のみがそこを通ると記述し普通の人々から隔絶されていて、場所は海外すなわち日本海の四海(北・南・東・海中と思われる)側が六合で済州島とよく符合し、蓬莱山を私は済州島にある山と推定した。
日槍説話は『古事記』では応神記の日矛説話で、『古事記』前川茂右衛門寛永版は「天之日矛・・・還泊多遅摩國即留其國而娶多遅摩之俣尾之女名前津見生子多遅摩母呂須玖此之子多遅摩斐泥此之子多遅摩比那良岐此之子多遅麻毛理次多遅摩比多訶次清日子此清日子娶當摩之咩斐生子酢鹿之諸男次妹菅竈止由良度美故上云多遅摩比多訶娶其姪由良度美生子葛城之高額比賣命」と神功皇后の出自の葛城之高額比賣の説話として記述し、まさに、日槍と葛城氏に接点が有り、安芸はその場所として良い場所だ。
『日本書紀』の「前津耳女麻拕能烏」と「多遅摩之俣尾之女名前津見」と親子関係が逆転しているが、前津耳は役職名で襲名して、しかも女王なので「俣尾姫」も襲名している。
そして、葛城氏の解説が『日本書紀』の垂仁天皇三年の一書で、「聞日本國有聖皇則以己國授弟知古而化帰・・・播磨國出浅邑淡路島宍粟邑・・・菟道河泝北入近江國吾名邑暫住復更自近江經若狹國西到但馬國則定住」と淡路島に立ち寄った由縁が「石刀子自然至于淡路嶋」とつながり、「神功皇后摂政前紀吾聞東有神國謂日本亦有聖王謂天皇」の引用文につながっていくのである。
このように、一書は葛城氏が『日本書紀』を記述した時の自家の補強の説話の可能性が高く、田道間守も清彦も「なか国」の説話の可能性が高い。

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