2019年9月25日水曜日

最終兵器の目 景行天皇10

 『日本書紀』慶長版は
夫冬十月壬子朔癸丑日本武尊發路之戊午抂道拜伊勢神宮仍辭于倭姫命曰今被天皇之命而東征將誅諸叛者故辭之於是倭姫命取草薙剱授日本武尊曰愼之莫怠也是歲日本武尊初至駿河其處賊陽從之欺曰是野也糜鹿甚多氣如朝霧足如茂林臨而應狩日本武尊信其言入野中而覓獸賊有殺王之情放火燒其野王知被欺則以燧出火之向燒而得免王曰殆被欺則悉焚其賊衆而滅之故号其處曰燒津亦進相摸欲往上總望海髙言曰是小海耳可立跳渡乃至于海中暴風忽起王舩漂蕩而不可渡時有從王之妾曰弟橘媛穗積氏忍山宿祢之女也啓王曰今風起浪泌王舩欲沒是必海神心也願以妾之身贖王之命而入海言訖乃披瀾入之暴風即止舩得著岸故時人号其海曰馳水也爰日本武尊則從上總轉入陸奧國時大鏡懸於王舩從海路𢌞於葦浦横渡玉浦至蝦夷境蝦夷賊首嶋津神國津神等屯於竹水門而欲距然遙視王舩豫怖其威勢而心裏知之不可勝悉捨弓矢望拜之曰仰視君容秀於人倫若神之乎欲知姓名王對之曰吾是現人神之子也於是蝦夷等悉慄則褰裳披浪自扶王舩而着岸仍面縛服罪故免其罪因以俘其首帥而令從身也蝦夷既平自日髙見國還之西南歷常陸至甲斐國居于酒折宮時舉燭而進食是夜以歌之問侍者曰珥比麼利菟玖波塢湏擬氐異玖用伽祢菟流諸侍者不能荅言時有秉燭者續王歌之末而歌曰伽餓奈倍氐用珥波虛虛能用比珥波苫塢伽塢即美秉燭人之聰而敦賞則居是宮以靫部賜大伴連之遠祖武日也於是日本武尊曰蝦夷凶首咸伏其辜唯信濃國越國頗未從化則自甲斐北轉歷武藏上野西逮于碓日坂時日本武尊毎有顧弟橘媛之情故登碓日嶺而東南望之三歎曰吾嬬者耶故因号山東諸國曰吾嬬國也於是分道遣吉備武彥於越國令監察其地形嶮易及人民順不則日本武尊進入信濃是國也山髙谷幽翠嶺萬重人倚杖而難升巖嶮磴紆長峯數千馬頓轡而不進然日本武尊披烟凌霧遙?()大山既逮于峯而飢之食於山中山神令苦王以化白鹿立於王前王異之以一箇蒜彈白鹿則中眼而殺之爰王忽失道不知所出時白狗自來有導王之狀隨狗而行之得出美濃吉備武彥自越出而遇之先是度信濃坂者多得神氣以瘼臥但從殺白鹿之後踰是山者嚼蒜塗人及牛馬自不中神氣也
【戊午に、道を外れて伊勢神宮を礼拝した。それで倭姫命にいとまごいして「今、天皇が命令を受けて、征東で諸々の反逆者を誅殺しようとしている。そのため、おいとまします」と言った。そこで、倭姫命が、草薙劒を取りだして、日本武尊に授けて「慎重に、油断するな」と言った。この歳、日本武尊は、初めて駿河に到着した。そこの賊は、うわべは服従したようにして「この野に、大鹿がいっぱいいる。息をすると朝霧のように曇り、足元を見ると茂った林のように足が見える。そこに行って狩をなさい」と言った。日本武尊は、その言葉を信んじて、野の中に入って獣を探し求めた。賊は、王を殺そうとその野焼のために火を放った。王は、騙されたと知って、すぐに火打石で火を点けて、向かい火でまぬかれれた。王は「騙されて危なかった」と言った。それでことごとくその賊軍を焚いて滅ぼした。それで、そこを焼津となづけたという。また相模に進出して、上總に行こうとした。海を望んで声高に「ここは小さな海だけだ。さっと渡ろう」と言った。それで海にはいり、途中暴風が急に起こって、王の船が漂流して渡ることが出来なかった。その時に王に従っている側室がいた。弟橘媛という。穗積氏忍山宿禰の娘だ。王に「今、風が立ち浪が船の中にしみ込んでいて、王の船が沈もうとしている。これはきっと海神のしわざだ。できましたら卑しい我が身を、王の命にかえて海に入ります」と言った。言い終わると直ぐ、浪の中に身を投げた。暴風はそのためやんだ。船は、岸に着くことが出来た。それで、当時の人はその海を馳水となづけたという。そして日本武尊は、上総から移って、陸奧国に入った。その時に大きな鏡を王の船に懸けて、海路で葦浦を廻った。横に玉浦を見ながら渡って、蝦夷の境界に着いた。蝦夷の賊の将軍の嶋津王・国津王等が、竹水門に駐屯して防御しようとした。しかし遠くに王の船が見えて、戦う前からその勢力を恐れて、内心で勝てないことを知って、のこらず弓矢を捨てて、敬意を払って土下座して「見上げて君の姿を視ると、人としての道徳が(人倫:孟子滕文公「皆所以明人倫也人倫明於上」)抜きんでている。まるで神のようだ。名を教えてください」と言った。王は、「私は、(神の言葉を人民に指し示す)大王の子だ。」と答えた。そこで、蝦夷等は、のこらず恐れおののいて、裳のすそを持ち上げ、浪を押し分けて、みずから王の船を協力して岸に着けた。それで両手を後ろ手にして縛り、顔を前に突き出してさらして罪人として従った。それで、その罪を問わなかった。それで、その首領を捕虜として、身柄を引きまわした。蝦夷は既に平定して、日高見国から還って、西南の、常陸を歴て、甲斐國について、酒折宮に居た。その時に明かりを上から灯して食事をした。その夜に、歌で従者に聞いた()ら 諸々の従者は答えることが出来なかった。その時に明かりを手に持つ者がいた。王の歌の後に続けて、歌い()明かりを手に持った人物の聡明さを褒めて、多くの褒美を与えた。それでこの宮に居て、軍隊を大伴連の遠祖の武日に与えた。そこで、日本武尊は「蝦夷のよこしまな首領は、みなそのとがに伏した。ただ信濃国・越国だけ偏ってまだ家来になっていない」と言った。それで甲斐から北の、武藏・上野を順を追って廻り、西方の碓日坂におよんだ。その時に日本武尊は、いつも弟橘媛を思いめぐらし、それで、碓日の嶺に登って、東南を望んで三度溜め息をついて「我が妻よ」と言った。それで山の東の諸国を、吾嬬国となづけたという。そこで、道を別れて、吉備武彦を越国に派遣して、その地形の様子や人民の情況を見届けた。それで日本武尊は、信濃に進入した。この国は、山が高く谷底が見えない。みどりの山々は沢山重なり人は杖に頼らないと登るのが難しい。崖は急峻で数千もの岩坂を曲がり廻って、長い道のりの頂きで、馬のくつわを引いても立ちどころに進まない。それでも日本武尊は、煙った場所にわけ入って、霧をしのいで、遥かな大山を急いで進んだ。峯におよんだとき、ひもじくなった。山の途中で食事をした。山の神が、王を苦めて、白鹿に化けて王の前に立った。王は怪しんで、一箇の蒜で白鹿を弾いた。それで眼に当てて殺した。そこで王は、道に迷って山を下りれなかった。その時に白い犬がやって来て、王を導いているようだった。犬に付いて行くと、美濃に出ることが出来た。吉備武彦は、越から脱出して日本武と会った。これから以降、信濃坂を渡るものは、多くの神の毒気で弱って臥せった。そして白鹿を殺した以降、この山を越える者は、蒜を噛んで人や牛馬に塗った。そうすると神の毒気に当たらない。】とあり、標準陰暦と合致する。
この説話は「以大彦命遣北陸武渟川別遣東海」と毛野君の説話を使った記述と思われ、『古事記』は「焼退還出皆切滅其國造等」も同じく焼津で戦闘があり、駿河から夷の国で、続いて「佐賀牟能袁怒迩」と相模で弟橘媛が死に、「荒夫琉蝦夷等亦平和」と蝦夷を平定して、「足柄之坂本於食御粮處其坂神化白鹿」と足柄で白鹿と戦っている。
すなわち、駿河・焼津・相模湾は敵国なのに上総では戦闘が無く陸奥でやはり戦闘があり、すなわち、上総の王の征服譚の話で、常陸・甲斐は上総の王の領地で信濃と越は敵国である。
その後、「甲斐坐酒折宮」、「誉其老人即給東國造也自其國越科野國乃言向科野之坂神先日所期美夜受比賣之」と甲斐で東国造を指名し、甲斐は『舊事本紀』「大八椅命甲斐國造等祖」と尾張氏の領地で尾張朝廷が毛野君と同盟したことを示している。
すなわち、『古事記』が実際の倭武の事績で、『日本書紀』の王は毛野君の事と考えるのが妥当で、葛城氏が天皇になったときは信濃や越も既に朝廷の領域になっているが、『舊事本紀』は「日本景武尊平東夷還参未参薨於尾張國矣」と無かったように記述し、『日本書紀』の説話の時点では越も信濃も夷の人々で、それは当然で、夷は「武内宿禰自東國還之奏言東夷之中有日高見國」と東国で東北ではない。
関東は、『尚書』堯典に「命羲和欽若昊天曆象日月星辰敬授人時分命羲仲宅嵎夷曰暘谷・・・帝曰咨汝羲暨和朞三百有六旬有六日以閏月定四時成歲」と辺境の暘谷に住む羲和と羲仲に暦を作らせたが、『山海經』大荒南經に「東南海之外甘水之間有羲和之國有女子名曰羲和」および「帝堯帝嚳帝舜葬于岳山」、海外南經にも「狄山帝堯葬于陽帝嚳葬于陰」と、すなわち、日本列島の関東に住む羲和の国は大人国や君子国・三身国と並ぶ古い歴史のある国で、『常陸風土記』「或曰倭武天皇巡狩東夷之国幸過新治之県」とただの皇子とは違う天皇が東夷の国を巡狩している。

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