2019年9月13日金曜日

最終兵器の目 景行天皇5

 『日本書紀』慶長版は
十一月到日向國起行宮以居之是謂髙屋宮十二月癸巳朔丁酉議討熊襲於是天皇詔群卿曰朕聞之襲國有厚鹿文迮鹿文者是兩人熊襲之渠帥者也衆類甚多是謂熊襲八十梟帥其鋒不可當焉少興師則不堪滅賊多動兵是百姓之害何不假鋒刃之威坐平其國時有一臣進曰熊襲梟帥有二女兄曰市乾鹿文弟曰市鹿文容既端正心旦雄武冝示重幣以撝納麾下因以伺其消息犯不意之處則會不血刃賊必自敗天皇詔可也於是示幣欺其二女而納幕下天皇則通市乾鹿文而陽寵時市乾鹿文奏于天皇曰無愁熊襲之不服妾有良謀即令從一二兵於己而返家以多設醇酒令飲己父乃醉而寐之市乾鹿文密斷父弦爰從兵一人進殺熊襲梟帥天皇則惡其不孝之甚而誅市乾鹿文仍以弟市鹿文賜於火國造十三年夏五月悉平襲國因以居於髙屋宮已六年也於是其國有佳人曰御刀媛則召爲妃生豊國別皇子是日向國造之始祖也十七年春三月戊戌朔己酉幸子湯縣遊于丹裳小野時東望之謂左右曰是國也直向於日出方故号其國曰日向也是日陟野中大石憶京都而歌之曰波辭枳豫辭和藝幣能伽多由區毛位多知區暮夜摩苫波區珥能摩倍邏摩多多儺豆久阿烏伽枳夜摩許莽例屢夜摩苫之于屢破試異能知能摩曾祁務比苫破多多瀰許莽幣愚利能夜摩能志邏伽之餓延塢于受珥左勢許能固是謂思邦歌也
【十一月に、日向国に到着して、行宮を起てた。これを高屋宮という。十二月の朔が癸巳の丁酉の日に、熊襲を討うと話し合った。そこで、天皇は、群卿に「私は襲の国に厚鹿文と迮鹿文という者がいると聞いている。この二人は熊襲の頭だ。仲間がとてもたくさんいる。これを昔から熊襲の八国の十勇士という。その矛先に近づいてはいけない。小規模の兵では賊を滅ぼすことが出来ない。多数の兵を動員すると、これは百姓に損害が出る。どうにかして矛や刀の力を借りないで、自然にその国を平定できないものか」と詔勅した。その時に一人の臣下がいた。進み出て、「熊襲の将軍に、二人の娘がいる。姉を市乾鹿文といい妹を市鹿文という。容姿は成熟して立派だ。心根はしっかりしていて勇ましい。沢山の貢物示して将軍に納まってもらいたいと言って、それでその動静をうかがい、不意をついて侵犯すれば、決して血を流さないで、賊は必ず自然に敗れることでしょう」と言った。天皇は、「それはいい」と詔勅した。そこで、贈り物を示し見せてその二人の娘を欺して、配下に招き入れた。天皇は、それで市乾鹿文の家に通いうわべでは可愛がった。その時に市乾鹿文は、天皇に「熊襲が降伏しないことを愁うることは有りません。私に良い謀略が有ります。すなわち一人か二人の兵を私に貸してください」と奏上した。それで家に返って、多くの発酵した酒を準備して、自分の父に飲ませた。それで酔って寝た。市乾鹿文が、密に父のゆみづるを切った。そこに従者の兵が一人、進み出て熊襲梟帥を殺した。天皇は、その親不孝が甚しいことを醜く思い、市乾鹿文を誅殺した。それで妹の市鹿文は、火国造をもらった。十三年の夏五月に、のこらず襲国を平定した。それで高屋宮に居ること、すでに六年たった。そして、その国に美人がいた。御刀媛という。それで召し入れて妃とした。豊国別皇子を生んだ。この皇子が、日向国造の始祖だ。十七年の春三月の朔が戊戌の己酉の日に、子湯縣に行幸し、丹裳の小野を遊覧した。その時に東を眺めて、側近に「この国はじかに日が出る方を向いている」と言った。それで、この国を日向と名付けた。この日に、野中の大石に登って、京都を思い出して、歌()
これを「国を思う歌」という。】とあり、標準陰暦と合致する。
この、合致する日付がある事件が熊襲梟帥暗殺で、『日本書紀』は2回に分けて熊襲梟帥を暗殺するが、『古事記』「姨之御衣御裳既成童女之姿交妾人之中入坐其室内尓熊曽建兄弟二人見成咸其嬢子坐於己中而盛樂故臨其酎酣時自懐出劔取熊曽之衣衿劔自其胸刺通之時其弟建見畏逃出乃追至其室之椅本取其背皮剣自尻刺通」と兄弟の熊曽建がいて、倭建が殺害し、『古事記』は市乾鹿文を倭建に当てはめた。
二十七年の熊襲魁帥暗殺も「時熊襲有魁帥者名取石鹿文」と熊襲魁帥の役職名が鹿文で同じ王家の中の人物で、さらに、妹の市鹿文が火国造なのだから、熊襲は火国を支配していたのであり、『後漢書』の「自女王國東度海千餘里至拘奴國」から『三国志』の「其南有狗奴國」と狗奴国がこの時に邪馬台国の東から南の領地(筑後)に領域を減らし、宗像・豊(豊前・豊後・長門・周防西部)・日向が「なか国」の領域となった。
また、日向国は17年に出来、もちろん、それ以前でも日向という地域は存在し、『古事記』「娶日向之美波迦斯毗賣生御子豊國別王」と日向国ではなく日向とされ、『古事記』は神話以外「日向國諸縣君」が最初、『日本書紀』は神武紀以外ではこの記述が最初で豊国別の()父が日向襲津彥皇子を類推でき、豊国別が安芸にある豊国王の子で現在の豊国である大分県と宮崎県の王で葛城氏が天皇になった時日向国造りになった本家なのだろう。
そして、『日本書紀』の神武紀はこれ以降に起こった説話である。

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