2019年9月4日水曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第七 景行天皇1

 『日本書紀』慶長版は
大足彥忍代別天皇活目入彥五十狹茅天皇第三子也母皇后曰日葉洲媛命丹波道主王之女也活目入彥五十狹茅天皇三十七年立爲皇太子(時年廿一)九十九年春二月活目入彥五十狹茅天皇崩元年秋七月己巳朔己卯太子即天皇位因以改元是年也太歲辛未二年春三月丙戌朔戊辰立播磨稻日大郎姫爲皇后后生二男第一曰大碓皇子第二曰小碓尊其大碓皇子小碓尊一日同胞而雙生天皇異之則誥於碓故因号其二王曰大碓小碓也是小碓尊亦名日本童男亦曰日本武幼尊有雄略之氣及壯容貌魁偉身長一丈力能扛鼎焉三年春二月庚寅朔卜幸于紀伊國將祭祀群神祇而不吉乃車駕止之遣屋主忍男武雄心念令祭爰屋主忍男武雄心命詣之居于阿備柏原而祭祀神祇仍住九年則娶紀直遠祖菟道彥之女影媛生武內宿祢
【大足彦忍代別天皇は、活目入彦五十狹茅天皇の第三子だ。母の皇后を日葉洲媛命という。丹波道主王の娘だ。活目入彦五十狹茅天皇の三十七年に、皇太子になった。その時二十一歳だった。九十九年の春二月に、活目入彦五十狹茅天皇が崩じた。元年の秋七月の朔が己巳の己卯の日に、太子は天皇に即位した。それで元号を改た。この年は太歳辛未だった。二年の春三月の朔が丙寅の戊辰の日に、播磨稻日大郎姫を皇后とした。后は、二人の男子を生んだ。第一を大碓皇子という。第二を小碓尊という。その大碓皇子と小碓尊は、同じ日に同じ母の双子で生れた。天皇はめずらしがって、すなわち碓に擬えた。それで、その二人の王を名付けて、大碓・小碓と言った。この小碓尊は、またの名を日本童男。または日本武尊という。幼少の頃から勇ましく戦略家の気質が有った。大きく立派になって容貌は並外れて優れていた。身長180㎝(?)で、力強く鼎を担ぎあげた。三年の春二月の庚寅の朔に、紀伊國に行幸して、もろもろの神祇を祭祀しようと占ったところ、不吉とでた。それで車駕を止めた。屋主忍男武雄心命を派遣して祭らせた。そこで屋主忍男武雄心命は、神へのお参りのために阿備の柏原に居て、神祇を祭祀した。それで留まって九年たった。それで紀直の遠祖の菟道彦の娘の影媛を娶って、武内宿禰を生んだ。】とあり、三年二月庚寅朔は1月30日で1月が小の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。
この天皇は皇后の長男の五十瓊敷に子がいなかったため、次男の宮に政権が遷り、その宮は皇后の宮だが、『日本書紀』は皇后の父を書かず、播磨国王と解るだけだが、『古事記』は「吉備臣等之祖若建吉備津日子」と『日本書紀』「倭國香媛・・・亦妃絙某弟生彥狹嶋命稚武彥命弟稚武彥命是吉備臣之始祖」と倭国造の姫でこの皇后は「なか国」王朝の皇后の説話でこの皇后の姻戚の忍代別が活目邑長から大国王となったことを意味する。
そして、大国王の皇子の屋主の武雄心が「紀直遠祖菟道彥之女影媛」、『古事記』「娶木國造之祖宇豆比古之妹山下影日賣生子建内宿祢」、『日本書紀』「珍彥爲倭國造」と倭国造の姫に婿入りして武內宿祢が生まれ、「なか国」王と義兄弟になったのであり、「兎上王」と「菟道彦」・「珍彦」の書き換えとの関係が伺える。
景行天皇は大彦と宇志王の子孫で、大彦は孝元天皇と欝色謎の皇子で宇志王は孝昭天皇と葛城彦の妹の世襲足媛の子の「天足彥國押人命此和珥臣等始祖」と天足彥國押人の子孫で「和珥臣遠祖姥津命之妹姥津媛生彥坐王」と和珥臣の祖の皇子の坐王の子である。
尾張氏の六世建田背の弟が建手和迩と和迩臣と関係がありそうで、妹宇那比姫は兎上(うなかみ)王、さらに、『舊事本紀』「八世孫倭得玉彦命・・・伊我臣祖大伊賀彦女大伊賀姫生四男」と伊賀臣の娘を娶っているが、伊賀臣は『日本書紀』「大彥命是阿倍臣膳臣阿閇臣狹狹城山君筑紫國造越國造伊賀臣凢七族之始祖」と大彦で倭得玉彦の子に玉勝山代根古と山代の王族がいて、山代は武埴安の元領地だ。
そして、一番の注目点が、これ以降に大足彦・稚足彦これは大国や稚国の可能性が高いが、足仲彦・誉田別・・と姓が無く、すなわち、姓が不要な立場天皇であり、景行天皇も垂仁天皇と同じ纏向に宮を置くのであるから、言わば現代の新屋と考えるべきで、尾張氏の宮に都を置いて皇太后を擁立していないので、その宮には皇太后が既に存在し、2つの朝廷が存在する。

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