2019年9月18日水曜日

最終兵器の目 景行天皇7

 『日本書紀』慶長版は
二十年春二月辛巳朔甲申遣五百野皇女令祭天照大神二十五年秋七月庚辰朔壬午遣武內宿祢令察北陸及東方諸國之地形旦百姓之消息也二十七年春二月辛丑朔壬子武內宿祢自東
國還之奏言東夷之中有日髙見國其國人男女並椎結文身爲人勇悍是捴曰蝦夷亦土地沃壤而曠之擊可取也秋八月熊襲亦反之侵邊境不止冬十月丁酉朔己酉遣日本武尊令擊熊襲時年十六於是日本武尊曰吾得善射者欲與行其何處有善射者焉或者啓之曰美濃國有善射者曰弟彥公於是日本武尊遣葛城人宮戸彥喚弟彥公故弟彥公便率石占横立及尾張田子之稻置乳近之稻置而來則從日本武尊而行之
【二十年の春二月の朔が辛巳の甲申の日に、五百野皇女を派遣して、天照大神を祭らせた。二十五年の秋七月の朔が庚辰の壬午の日に、武内宿禰を派遣して、北陸および東方の諸国の地形や、百姓の事情を観察させた。二十七年の春二月の朔が辛丑の壬子の日に、武内宿禰は、東国から帰って「東の未開の国の中に、日高見国が有る。その国の人は、男女共に槌を腰に結び入れ墨を施して、そのさまはいさましくて強い。これらを蝦夷という。また土壌は豊かで広いので、打ち破って土地を奪うべきだ」と奏上した。秋八月に、熊襲がまた反逆し、辺境への侵略が止まらない。冬十月の朔が丁酉の己酉の日に、日本武尊を派遣して、熊襲を撃たした。この時、年齢は十六歳だった。日本武尊が「私は弓の名手を与えてもらって、一緒に行軍したい。それでどこかに弓の名手はいないのか」と言った。或人が「美濃国に弓の名手がいる。弟彦公という」と教えた。それで、日本武尊は、葛城の宮戸彦を派遣して、弟彦公を召喚した。そのため、弟彦公は、石占横立を隣にして尾張の田子の稻置と乳近の稻置の軍団を率いてやってきた。そして日本武尊に従っていった。】とあり、二十年春二月辛巳朔は1月30日、二十七年二月辛丑朔も1月30日で、二十七年十月丁酉朔は1月ずれて合っていない。
二十七年の2月と10月のセットで干支が合うのは4年・128年・221年・345年・402年で『舊事本紀』は「九世孫弟彦命」と西暦4年か128年ならこの人物だが崇神や垂仁と同じ世代で登場人物に違和感が有り、「十四世孫尾治弟彦連次尾治針名根連次意乎巳連此連大萑朝御世爲大臣供奉」なら345年に挿入すべき説話と考えられるが、弟彦兄弟が大臣で天皇ではなくなっていて、葛城王朝は履中天皇の400年からの可能性が高く、402年が最適で、この時代なら武内大臣もまだ指示されて蝦夷を偵察していることから、履中天皇の皇太子になる。
402年なら天皇の叔父の葛城襲津彥の部下の宮戸彦に尾張に引きこもった弟彦を呼び出し蝦夷征伐をさせ、345年なら天皇の皇子の弟彦が大和武尊の一人で日向諸縣君牛の子の葛城襲津彥の配下を引き連れて蝦夷征伐をしたことを意味し、登場人物を考えるとやはり、402年か345年だ。
そして、九世孫弟彦命なら『舊事本紀』「十世孫淡夜別命大海部直等祖弟彦命之子次大原足屋(?)筑紫豊國國造等祖置津與曽命之子次大八椅命甲斐國造等祖彦與呂命之子」と名目上か筑紫豊国国造等祖と『後漢書』「拘奴國」の王が大原足尼で『古事記』「沙本毗古王者(日下部連甲斐國造之祖)」と狭穗彦の子孫でもある大原足尼が占領した甲斐が蝦夷ということになる。
また、応神22年に「次以三野縣封弟彦是三野臣之始祖也」と応神天皇時代に弟彦が記述され、仁徳以降に蝦夷らしい国の国造の祖はおらず、甲斐以外で関東以北なら蝦夷を領有できないので、毛野君が蝦夷征伐を行ったことになり、『常陸風土記』「或曰倭武天皇巡狩東夷之国幸過新治之県」の「倭武」が思いうかぶ。
応神22年三野臣と尾張氏が三野臣の祖、尾張大海媛の子の八坂入彦も美濃、垂仁天皇が狭穗媛の子の譽津別と遊んだのも美濃の相津と尾張が全く出てこないが、『猿投神社所蔵尾張国養老元年之図』を参照すれば理解でき、熱田神宮は岬、多度大社は島、入鹿屯倉 は犬山市にあり 、『古事記』「尾張丹羽臣」とあるが旧犬山藩は丹羽郡である。

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