2019年9月9日月曜日

最終兵器の目 景行天皇3 卑弥呼現れる

 『日本書紀』慶長版は
十二年秋七月熊襲反之不朝貢八月乙未朔己酉幸筑紫九月甲子朔戊辰到周芳娑麼時天皇南望之詔群卿曰於南方烟氣多起必賊將在則留之先遣多臣祖武諸木國前臣祖菟名手物部君祖夏花令察其狀爰有女人曰神夏磯媛其徒衆甚多一國之魁帥也聆天皇之使者至則拔磯津山賢木以上枝挂八握剱中枝挂八咫鏡下枝挂八尺瓊亦素幡樹于舩舳參向而啓之曰願無下兵我之属類必不有違者今將歸德矣唯有殘賊者一曰鼻垂妄假名号山谷響聚屯結於菟狹川上二曰耳垂殘賊貧婪屢略人民是居於御木川上三曰麻剥潛聚徒黨居於髙羽川上四曰土折猪折隱住於緑野川上獨恃山川之險以多掠人民是四人也其所據並要害之地故各領眷属爲一處之長也皆曰不從皇命願急擊之勿失於是武諸木等先誘麻剥之徒仍賜赤衣褌及種種奇物兼令撝不服之三人乃率己衆而參來悉捕誅之天皇遂幸筑紫到豊前國長峽縣興行宮而居故号其處曰京也
【十二年の秋七月に、熊襲が叛いて朝貢しなかった。八月の朔が乙未の己酉の日に、筑紫に行幸した。九月の朔が甲子の戊辰の日に、周芳の娑麼に着いた。その天皇は、南を望み見て、群卿に「南の方に烟がたくさん立ち上がっている。きっと賊が襲っているから何とかしよう」と詔勅した。それで娑麼に止まって、まず多臣の祖の武諸木・国前臣の祖の菟名手・物部君の祖の夏花を派遣して、その状態を調べた。そこに女が1人いて、夏磯媛神といってその仲間たちはとてもたくさんいて一国を股に掛ける賊軍の大将だ。天皇は夏磯媛の使者が到着し報告を聞くために、磯津山の賢木を抜き取って、上の枝に八握劒を引っかけ、中間の枝には八咫鏡を引っかけ、下の枝には八尺瓊を引っかけ、また素のままの幡を船の舳に立てかけて戦いの準備をした。使者が目の前に来て「出兵を止めてください。私たちは類縁同士で、まったく異を唱える者はいない。いま丁度、教えに従おうとしていたが、従わない残党がいて一人を鼻垂という。慎みなく名を広めようとのニセの名で、山谷でよく知られていて人を集めて、菟狹の川上にかたまって寄り集まっている。二人目を耳垂といい、その残党は欲深くて、しばしば人々を略奪する。この者は御木の川上にいる。三人目を麻剥という。密かに徒党を組んで、高羽の川上にいる。四人目を土折猪折という。緑野の川上に隱れ住んで、ひとり山川の険しい地形を利用して、多くの人民を略奪する。この四人は、そこが拠点で要害の地だ。だから、夫々の家来を支配しひとかどの棟梁となった。皆が、『皇命には従えない』という。お願いだから急いで残党を討ってほしい。討たないと全て失いますよ」と働きかけた。そこで、武諸木等に、まず麻剥の家来を誘う。それで赤い衣褌やいろいろなの珍しい物を与えて、前から服従していない三人を指図してその家来を連れて参上したのですべて捕えて誅殺した。天皇は、それで筑紫に行幸して、豐前國の長峽縣に到着して、行宮を建ててくつろいだ。それで、そこを京と名付けた。】とあり、標準陰暦と合致する。
この戦いは、『古事記』・『舊事本紀』に記述されないので、畿内政権の事績でも葛城氏の事績でもなく、大足彦の上司兎上王の支配する「なか国」の説話と思われ、周防を出発し、『後漢書』に「自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王」とある拘奴國を討った説話で、鼻垂・耳垂は鼻足・耳足で鼻の地を統治する王、熊襲の投馬国が「投馬國・・・副曰彌彌那利」とされ、鼻大耳の下で耳の冠位の人々を統治する王なのかもしれない。
また、この説話が『日本書紀』のみということは、この説話が違う王すなわち神功皇后12年の説話で景行12年に起こった違う事件に上書きした可能性が有り、神宮12年は漢の献帝の時代で、桓帝と霊帝のすぐ後で、『後漢書』の「桓靈間倭國大亂・・・事鬼神道・・・於是共立為王」と後漢時代に女王が共立され、鬼神道と「神夏磯媛」の神は神の言葉を直接代弁する女王で卑弥呼そのものだ。
そして、筑紫は「豐前國長峽縣」と記述するように縣の上位に国があり、その国を支配する「夏磯媛」は夏が那の津で磯は伊蘇かも知れず、『日本書紀』「伊蘇國今謂伊覩者訛也」と今の糸島で、奴縣や伊都縣を支配する国の女王が神夏磯媛で卑弥呼の可能性が大きく、拘奴國を「なか国」と協力して打ち破って『三国志』の「其南有狗奴國・・・不屬女王」と女王国の南に押しやることが出来た。
そして、「なか国」は京都郡に宮を建設し、その近辺には太祖神社があり、建国の場所、京都郡の神武天皇の建国の場所であり、『後漢書』では東と南の拘奴國を「なか国」に助けてもらった夏磯媛は魏にも援助を求めて、死後に宗女、本家の倭奴(猪野)の姫が南の熊襲の残党拘奴國と闘ったのが『三国志』の内容だ。

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