『日本書紀』慶長版は
「十八年春三月天皇將向京以巡狩筑紫國始到夷守是時於石瀬河邊人衆聚集於是天皇遙望之詔左右曰其集者何人也若賊乎乃遣兄夷守弟夷守二人令覩乃弟夷守還來而諮之曰諸縣君泉媛依獻大御食而其族會之夏四月壬戌朔甲子到熊縣其處有熊津彥者兄弟二人天皇先使徵兄熊則從使詣之因徵弟熊而不來故遣兵誅之壬申自海路泊於葦北小嶋而進食時召山部阿弭古之祖小左令進冷水適是時嶋中無水不知所爲則仰之祈于天神地祗忽寒泉從崖傍涌出乃酌以獻焉故号其嶋曰水嶋也其泉猶今在水嶋崖也五月壬辰朔從葦北發舩到火國於是日沒也夜冥不知著岸遙視火光天皇詔挾杪者曰直指火處因指火往之即得著岸天皇問其火光處曰何謂邑也國人對曰是八代縣豊村亦尋其火是誰人之火也然不得主茲知非人火故名其國曰火國六月辛酉朔癸亥自髙來縣渡玉杵名邑時殺其處之土蜘蛛津頰焉丙子到阿蘇國也其國郊原曠遠不見人居天皇曰是國有人乎時有二神曰阿蘇都彥阿蘇都媛忽化人以遊詣之曰吾二人在何無人耶故号其國曰阿蘇秋七月辛卯朔甲午到筑紫後國御木居於髙田行宮時有僵樹長九百七十丈焉百寮蹈其樹而往來時人歌曰阿佐志毛能瀰概能佐烏麼志魔幣菟耆弥伊和哆羅秀暮弥開能佐烏麼志爰天皇問之曰是何樹也有一老夫曰是樹者歷木也嘗未僵之先當朝日暉則隱杵嶋山當夕日暉?(覆)阿蘇山也天皇曰是樹者神木故是國冝号御木國丁酉到八女縣則越前山以南望粟岬詔之曰其山峯岫重疊旦美麗之甚若神有其山乎時水沼縣主?(猨)大海奏言有女神名曰八女津媛常居山中故八女國之名由此起也八月到的邑而進食是日膳夫等遺盞故時人号其忌盞處曰浮羽今謂的者訛也昔筑紫俗号盞日浮羽十九年秋九月甲申朔癸卯天皇至自日向」
【十八年の春三月に、天皇は、京に向おうと、築紫国を巡狩した。はじめて夷守に到着した。この時に、石瀬河の畔に、民衆が群がっていた。そこで、天皇が遠くから眺めて、側近に「あの集りは何をしているのだ。若しかしたら賊か」と詔勅した。それで兄夷守と弟夷守の二人を派遣して調べさせた。それで弟夷守が、帰って来て相談して「諸縣君の泉媛が、大盤振る舞いをして、その配下が集まっていました」といった。夏四月の朔が壬戌の甲子の日に、熊縣に到着した。そこの熊津彦という者が、兄弟二人でいた。天皇は、まず兄熊を呼び出して、使者に従ってやってきた。それで弟熊を呼び出したが来なかったため派兵して誅殺した。壬申に、海路で葦北の小嶋に停泊して、食事を求めた時に、山部の阿弭古の祖の小左を呼び出して、冷い水を求めた。この時に、嶋の中に水が無かったのでどうすることもできなかった。それで天を仰いで結局、天神地祇に祈った。するとたちまちに寒泉の崖の傍から水が涌き出した。それを酌んで献上した。それで、その嶋を水嶋となづけたという。その泉は今だに水嶋の崖に在る。五月の壬辰の朔に、葦北から出港し、火國に着いた。そこで日が暮れた。夜で暗くて接岸できなかった。遠くに火で光るのが見えた。天皇は、舵取りに「真っすぐ火のありかに船を向けなさい」と詔勅した。それで火を目指して行った。それで岸に著くことができた。天皇は、その火の光る所を「何という名の邑か」と聞いた。国の人が「これは、八代縣の豊村だ」と答えた。またその火を「これは、誰が灯した火だ」と尋ねた。しかしその人物は解らなった。そこで、人によらない火と知って、その国を火国と名づけたという。六月の朔が辛酉の癸亥の日に、高来縣から、玉杵名の邑に渡った。その時にそこの土蜘蛛の津頬という者を殺した。丙子に、阿蘇の国に到着した。その国は、街はずれの広く遠い原野で、人がいない。天皇は「この国に人はいるのか」と言った。その時に二柱の神がいた。阿蘇都彦と阿蘇都媛という。それで人に化けて歩き回ってやって来て 「私たちが二人いる。どうして人がいないというか」と言った。それで、その国を阿蘇となづけた。秋七月の朔が辛卯の甲午の日に、筑紫後国の御木に到着して、高田の行宮にいた。その時に倒れた樹が有った。長さ九百七十丈だ。百寮が、その樹を踏んで行き来する。当時の人は、歌った(略)。そこで天皇は、「これはどういう名の樹だ」と聞いた。一人の老夫いて「この樹は歴木という。昔、まだ倒れる前に、朝日が当たって輝き、杵嶋の山を隱した。夕日に当たって輝き、阿蘇山を覆った」といった。天皇は「この樹は、神木だ。だから、この国を御木の国とよべ」と言った。丁酉の日に、八女縣に到着した。それで藤山を越えて、南の粟岬を望み見た。「その山の峯と峯が重なって、きれいなことこの上ない。だから神はその山にいるのか」と詔勅した。その時に水沼の縣主の猿大海が、「女神がいます。名を八女津姫といいます。いつも山の中に居ます」と奏上した。それで、八女国の名は、この理由で名付けられた。八月に、的邑に到着して食事をした。この日に、料理人達が盞を忘れた。それで、当時の人が、その盞を忘れた所を浮羽となづけた。今、的というのは訛りだ。昔、筑紫の民衆は、盞を浮羽といった。十九年の秋九月の朔が甲申の癸卯の日に、天皇は、日向から到着した。】とあり、十八年七月辛卯朔は7月2日が辛卯で6月は小の月であり、大の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。
この一連の説話は京都郡に帰るときに筑紫国を巡回して帰ろう、すなわち、この王は筑紫国京都郡が首都の王の説話で、京都に帰るのに、日向から夷守これは『三国志』「大官曰卑狗副曰卑奴毋離」と官名で夷守は役所で諸縣君がいる場所、日向国内で日向国造豊国別はまだ子供で諸縣君が統治していたのである。
その後海岸線にある熊縣、鹿児島県にも熊野神社が多数あり1万年以上前の縄文土器が出土する地域で、八代海の葦北そして八代縣ここは火国、市鹿文に与えた国で長崎県の高来縣そして熊本県玉杵名(玉名)、阿蘇国、御木(三池)、八女(水沼縣)、浮羽と筑後川南岸を廻って筑紫の京都郡に帰った。
筑後川南岸は火国で北岸は火国の領域ではなく、筑紫後国も火国の領域で、浮羽の東北方が京都郡の王者の国だとわかるが、先にも書いたように戦いは3世紀初頭であるのに、日干支が正しいということは、この巡回説話は周防出発の王者以前の『後漢書』「拘奴國」王の巡行が考えられ、筑後川北岸は周防を出発にした王に押しやられた『三国志』の「狗奴國」だ。
ここで、クヌギの大木が長さ九百七十丈とあり、クヌギはだいたい15から20mまで大きくなり、世界有数の大木は25から30m、縄文杉も30mだから千丈約30mで1丈約3㎝、300mの巨木は聞いたことが無く、セコイアでも100mだ。
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