2019年9月20日金曜日

最終兵器の目 景行天皇8

 
 『日本書紀』慶長版は
十二月到於熊襲國因以伺其消息及地形之嶮易時熊襲有魁帥者名取石鹿文亦曰川上梟帥悉集親族而欲宴於是日本武尊解髮作童女姿以密伺川上梟帥之宴時仍剱佩裀裏入於川上梟帥之宴室居女人之中川上梟帥感其童女容姿則携手同席舉坏令飲而戲弄于時也更深人闌川上梟帥且被酒於是日本武尊抽裀中之剱刺川上梟帥之胸未及之死川上梟帥叩頭曰且待之吾
有所言時日本武尊留剱待之川上梟帥啓之曰汝尊誰人也對曰吾是大足彥天皇之子也名曰本童男也川上梟帥亦啓之曰吾是國中之強力者也是以當時諸人不勝我之威力而無不從者吾多遇武力矣未有若皇子者是以賤賊陋口以奉尊号若聽乎曰聽之即啓曰自今以後号皇子應稱日本武皇子言訖乃通胸而殺之故至于今稱曰日本武尊是其縁也然後遣弟彥等悉斬其黨類無餘唯一既而從海路還倭到吉備以渡穴海其處有惡神則殺之亦比至難波殺柏濟之惡神二十八年春二月乙丑朔日本武尊奏平熊襲之狀曰臣頼天皇之神靈以兵一舉頓誅熊襲之魁帥者悉平其國是以西洲既謐百姓無事唯吉備穴濟神及難波柏濟神皆有害心放毒氣令苦路人並爲禍害之藪故悉殺其惡神並開水陸之徑天皇於是美日本武之功而異愛
【十二月に、熊襲国に到着した。それで、熊襲の情勢や地形の善し悪しを調査した。その時に熊襲に一目置かれる棟梁がいた。名を取石鹿文という。とおり名は川上梟帥という。親族をのこらず集めて饗宴をしようとしていた。そこに、日本武尊は、髪を下ろして童女の姿に化けて、密に川上梟帥の饗宴の時の隙を狙っていた。それで剱を懐の中に隠して、川上梟帥が饗宴の部屋に入って、女達の中に隠れた。川上梟帥は、その童女の顔立ちに心を動かして、手を引いて隣の席に座らせて、坏を挙げて飲みかわし、戯れじゃれあった。宴会が盛大になり、半ばがすぎて、人がまばらとなった。川上梟帥も、酔った。そこで、日本武尊は懐の剱を抜き取り、川上棗帥の胸を刺した。死に際に、川上梟帥が頭を叩いて「一寸待て。私は言いたいことが有る」と言った。その時、日本武尊は、剱を抜かないで待った。川上梟帥は「お前は誰だ」と答を求めた。「私は、大足彦天皇の子だ。名は日本童男という」と答えた。川上梟帥は、「私は、国中の力自慢だ。それでこの世の人たちは、私に勝てない物に従がわない。私は多くの力自慢に会ったが、今までに皇子のような者はいなかった。これ以後、浅はかな賊の卑しい者の言葉ではあるが尊号を献上しよう。聞き入れてほしい」と答を求めた。「聞き入れよう」と言った。「今から、皇子を名付けて日本武皇子と唱えては」と求めた。言い終わったところで、胸を貫いて殺した。それで、今に至るまで、日本武尊と讃えているのはこのためだ。そうした後に、弟彦達を派遣して、のこらず中間を斬らして、生きている者がいなかった。それで、海路で倭に帰ろうと、吉備に着いて穴海(児島半島)を渡った。そこに敵王がいたので殺した。また難波に着くころに、柏の渡しの敵王を殺した。二十八年の春二月の朔が乙丑の日に、日本武尊は、熊襲を平定した状態を「私は、天皇の先祖からの威光を頼って、軍によって一挙・立ちどころに熊襲の首領をのこらず誅殺して、その国を平定した。これで、西の洲は既に静かになった。百姓は何事もなく、ただ吉備の穴の渡りの王と難波の柏渡りの王のみ、国を挙げて朝廷の邪魔をするつもりが有って、悪意で殺気立ち、通行の邪魔をして、被害が多数あった。それで、のこらずその邪魔な王を殺して、水陸の通行を共に出来るようにした」と奏上した。天皇は、そこで、日本武の功績を誉めて取り立てて寵愛した。】とあり、二十八年春二月乙丑朔は1月30日である。
この説話の矛盾は、16歳の皇子と姫を戯れて間違うはずが無く、劔を胸に隠した皇子に気を許すことなど有り得ず、市乾鹿文なら女性で娘か姪で戯れあっても何の不思議もなく、市乾鹿文に殺害され、市乾鹿文が死に際に王位を譲られたと言って新たな王となるのはよく理解できる。
そして、その混乱の中、姉妹で後継争いが起こって、市鹿文を援助して市乾鹿文を殺害して市鹿文が火国を得て、豊国は筑紫・豊後・日向を得たことを意味する。
そして、帰りの吉備と難波の戦いは、畿内政権の説話なら意味不明で、なぜ、出発時に難波→吉備ではないかが疑問であるが、京都郡の配下の王が日向国を出発して、吉備そして難波を攻撃したのならよく意味が通り、「然後遣吉備臣祖鴨別令撃熊襲國」「皇后之船直指難波」・「武内宿禰和珥臣祖武振熊率數萬衆令撃忍熊王」と鴨別が吉備臣になり、武内宿禰と神功皇后が忍熊王と戦い勝利した事件が思い浮かぶ。
『古事記』「息長宿祢王此王娶葛城之高額比賣生子息長帯比賣命次虚空津比賣命次息長日子王(三柱此王者吉備品遅君針間阿宗君之祖)」と神功皇后の父が吉備や播磨の王の祖で、「娶吉備臣等之祖若建吉備津日子之女名針間之伊那毗能大郎女生御子櫛角別王次大碓命次小碓命亦名倭男具那命」とやはり吉備臣の祖の娘の子が倭武で吉備臣になっていない。
しかし、同じ景行記末に「娶吉備臣建日子之妹大吉備建比賣生御子建貝兒王」と吉備臣が祖でなくなって、そして、神武東征では「國遷上幸而於吉備之高嶋宮八年坐」と吉備まで神武天皇の領域と記述していて、神武東征が神功皇后以降にあり、「日向諸縣君牛仕于朝庭」と畿内に進出してこの説話につながり、倭武は吉備臣の祖の孫で倭武の活躍で義父や従弟が吉備臣になり、神功皇后も倭武の親世代以上前の人物で、兄弟以降の親族が吉備臣になるのだ。

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