『日本書紀』慶長版は
「日本武尊更還於尾張即娶尾張氏之女宮簀媛而淹留踰月於是聞近江膽吹山有荒神即解剱置於宮簀媛家而徒行之至膽吹山山神化大蛇當道爰日本武尊不知主神化虵之謂是大蛇必荒神之使也既得殺主神其使者豈足求乎因跨虵猶行時山神之興雲零水峯霧谷曀無復可行之路乃
捷遑不知其所跋渉然凌霧強行方僅得出猶失意如醉因居山下之泉側乃飲其水而醒之故号其泉曰居醒泉也日本武尊於是始有痛身然稍起之還於尾張爰不入宮簀媛之家便移伊勢而到尾津昔日本武尊向東之歲停尾津濱而進食是時解一剱置於松下遂忘而去今至於此剱猶存故歌曰烏波利珥多陀珥霧伽幣流比苫菟麻菟阿波例比等菟麻菟比苫珥阿利勢磨岐農岐勢摩之塢多知波開摩之塢逮于能褒野而痛甚之則以所俘蝦夷等獻於神宮因遣吉備武彥奏之於天皇曰臣受命天朝遠征東夷則被神恩頼皇威而叛者伏罪荒神自調是以卷甲戢戈愷悌還之冀曷日曷
時復命天朝然天命忽至隙駟難停是以獨臥曠野無誰語之豈惜身亡唯愁不面既而崩于能褒野時年三十天皇聞之寢不安席食不甘味晝夜喉咽泣悲摽擗因以大歎之曰我子少碓王昔熊襲叛之日未及倊角久煩征伐既而恒在左右補朕不及然東夷騷動勿使討者忍愛以入賊境一日之無不顧是以朝夕進退佇待還日何禍兮何罪兮不意之間倐亡我子自今以後與誰人之經綸鴻業耶即詔群卿命百寮仍葬於伊勢國能褒野陵時日本武尊化白鳥從陵出之指倭國而飛之群臣等因以開其棺櫬而視之明衣空留而屍骨無之於是遺使者追尋白鳥則停於倭琴彈原仍於其處造陵
焉白鳥更飛至河內留舊市邑亦其處作陵故時人号是三陵曰白鳥陵然遂髙翔上天徒葬衣冠因欲錄功名即定武部也是歲天皇踐祚四十三年焉」
【日本武尊が、尾張に帰り、それで尾張氏の娘の宮簀媛を娶って、月をこえてとどまった。そこで、近江の五十葺山に人々を荒らす神がいると聞き、剱を解いて宮簀媛の家に置いて、手に何も持たないで出かけた。膽吹山についたら、山の神は、大蛇に化けて道にいた。そこで日本武尊は、主神が蛇に化けた事を知らないで「この大蛇は、きっと人々を荒らす神の使者だろう。主神を殺すには、使者ではものたりない」と言った。それで、蛇を跨いでさらに行くと山の神は、雲を興して氷雨を降らし峯に霧、谷を覆い隠して、行くべき路が解らず、慌てて近道を歩き回って遭難した。しかしそれでも霧を無視して強行した。そして何とか出ることが出来た。それでもやはり、訳が分からず酔ったようだった。それで山の下の泉の畔にいて、その水を飲んだら酔いが覚めたように意識が戻った。それで、その泉を、居醒泉となづけたという。日本武尊は、ここで、体を痛めた。それでなんとか起き上がって、尾張に帰った。そこで宮簀媛の家に入らず、伊勢に移って、尾津に着いた。さきに日本武尊が、東に向った歳に、尾津の濱に停泊して食事をした。この時に、ひとつの剱を解いて、松の下に置いた。それで忘れて去った。ここに至って、この剱がまだあった。それで、歌って(略)太刀を帯びて能褒野について、痛みが甚だしくなった。それで俘虜の蝦夷達を、神宮に献上した。それで吉備武彦を派遣して、天皇に「私は、命令を天皇から受けて、遠く東の夷を征った。それで神の恩恵によって、天皇の威光に頼って、反逆者を、罪に伏させて、人々を荒らしまわる者は、自然に、和らいだ。これで、甲を巻いて、戈を収めて、戦乱を和らげ従わせて帰った。いつか天皇に復命をしたいと思っていました。しかしにわかに天命で、隙間から馬が走る僅かな時も(隙駟:唐の資料に漢武帝が使ったとあり荘子は隙駒を使用)停ることが出来ない。それで、一人孤独に広野に臥せっています。誰にも語ることが出来ない。どうして身が亡ぶことを惜しみましょうか。ただ残念なことに、面前で報告できないことです」と奏上させた。そのときすでに能褒野で崩じていた。その時、年齢は年三十歳だった。天皇は訃報を聞いて、眠れず、食事についても味が解らず昼夜むせび泣いた。胸を叩いて大変嘆いて「我が子の小碓王は、昔、熊襲が反乱した時に、まだあげまきもまゝならぬうちに、長く征伐に悩み、既に、いつも付き人となって私のおよばないところを補った。それなのに東の夷が騷動を起こしたが、討つ者が居なかった。けなげに賊の境に入り込んだ。一時も思いめぐらさないことが無かった。それで、朝に夕に進むに退くにその都度、帰る日を佇んで待った。何の禍いも、何の罪も、知らないうちに、我が子が突然の死亡した。今から以後、誰と一緒に大業を治めればよいのか」と言った。それで群卿に詔勅して役人に命令して、伊勢国の能褒野の陵に葬った。その時、日本武尊が、白鳥となって、陵から出て、倭国を目指して、飛んだ。群臣等が、それで、その棺を開いて視たら、浄衣だけ空しく留っていて、屍が無かった。それで、使者を派遣して白鳥を追ひ求めた。すると倭の琴彈の原に停っていた。それでそこに陵を造った。白鳥が、また飛んで河内について、古市の邑に留った。またそこに陵を作った。それで、その当時の人が、この三つの陵を、白鳥の陵となづけたという。そしてついに高く翔んで天に上った。何もなしにに衣冠を葬った。それで功績と名をとどめようと、武部を定めた。この歳、天皇が天子の位を受け継いで四十三年となっていた。】とある。
前の項で書いたように尾張から伊勢は大回りで、大和に帰るのに伊吹山→醒井→能褒野は経路上異常で、伊吹山へ行く前に伊勢に行くべきで、この伊勢は前に述べた伊勢遺跡の伊勢が候補である。
敵国の伊吹山周辺に対して尾張氏は犬山・各務原・岐阜更に木曽三川下流の津島大社と対岸の熱田神宮で伊勢市はかなり南方、そして、伊勢遺跡の王朝は員弁・伊賀そして伊勢遺跡がある野洲市その北方に醒ケ井があってその北が伊吹山で敵領だ。
倭武の墓が伊勢・大和・河内にあるということは、少なくともこの三人の倭武がいたことを示し、その検証は次回の倭武の妃や子供の詳細を見ることで明らかとなるだろう。
ここでは、倭武の熊襲と蝦夷征伐が異なる人物の説話の証明として、『古事記』の「出雲國欲殺其出雲建而到即結友故竊以赤檮作詐刀爲御佩共沐肥河尓倭建命自河先上取佩出雲建之解置横刀而詔爲易刀故後出雲建自河上而佩倭建命之詐刀」の説話があり、この説話は『日本書紀』の出雲振根説話の「兄竊作木刀形似真刀當時自佩之弟佩真刀共到淵頭兄謂弟曰淵水清冷願欲共游沐弟從兄言各解佩刀置淵邊沐於水中乃兄先上陸取弟真刀自佩後弟驚而取兄木刀共相擊矣弟不得拔木刀兄擊弟飯入根而殺」が全く同じ説話で、『日本書紀』はこの説話を倭武に使用せず崇神天皇の事績に入れ込んだことが解る。
すなわち、正史では出雲の倭武は筑紫と同盟した反逆者で、「出雲臣之遠祖」出雲振根と子孫が出雲の支配者になるということは、朝廷の反逆者が後の朝廷では反逆者でないことを意味し、葛城朝廷の協力者ということになるから、『古事記』では英雄なのである。
そして、逆に関東の倭武は『古事記』の朝廷にとっては不都合な倭武だから記述していないが、『日本書紀』は出雲の倭武も関東の倭武も出雲振根説話を記述したように関東の倭武も雄略天皇の時期には畿内政権の臣下となったため説話に残したのである。
このように、西暦100年前後に熊襲の地で活躍した皇子は倭武、紀元前に出雲で活躍した皇子も倭武、河内の皇子も、大和の皇子も、近江も、美濃も、関東でも皇子や王を倭武とを西暦450頃に同じ人物と見做して記述してもだれも否定できなかった、すなわち、この地域が一つの王朝の宗主国になったことを意味する。
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