『日本書紀』慶長版は
「四年春二月甲寅朔甲子天皇幸美濃左右奏言之茲國有佳人曰弟媛容姿端正八坂入彥皇子之女也天皇欲得爲妃幸弟媛之家弟媛聞乗輿車駕則隱竹林於是天皇權令弟媛至而居于泳宮鯉魚浮池朝夕臨視而戲遊時弟媛欲見其鯉魚遊而密來臨池天皇則留而通之爰弟媛以爲夫婦之道古今達則也然於吾而不便則請天皇曰妾性不欲交接之道今不勝皇命之威暫納惟幕之中然意所不快亦形姿穢陋久之不堪陪於掖庭唯有妾姉名曰八坂入媛容姿麗美志亦貞潔宜納後宮天皇聽之仍喚八坂入媛爲妃生七男六女第一曰稚足彥天皇第二曰五百城入彥皇子第三曰忍之別皇子第四曰稚倭根子皇子第五曰大酢別皇子第六曰渟熨斗皇女第七曰渟名城皇女第八曰五百城入姫皇女第九曰麛依姫皇女第十曰五十狹城彥皇子第十一曰吉備兄彥皇子第十二曰髙城入姫皇女第十三曰弟姫皇女又妃(三)尾氏磐城別之妹水齒郎媛生五百野皇女次妃五十河媛生神櫛皇子稻背入彥皇子其兄神櫛皇子是讚岐國造之始祖也弟稻背入彥皇子是播磨別之始祖也次妃阿倍氏木事之女髙田媛生武國凝別皇子是伊豫國御村別之始祖也次妃日向髮長大田根生日向襲津彥皇子是阿牟君之始祖也次妃襲武媛生國乳別皇子與國背別皇子豊戸別皇子其兄國乳別皇子是水沼別之始祖也弟豊戸別皇子是火國別之始祖也夫天皇之男女前後幷八十子然除日本武尊稚足彥天皇五百城入彥皇子之外七十餘子皆封國郡各如其國故當今時謂諸國之別者即其別王之苗裔焉是月天皇聞美濃國造名神骨之女兄名兄遠子弟名弟遠子並有國色則遣大碓命使察其婦女之容姿時大碓命便密通而不復命由是恨大碓命冬十一月庚辰朔乗輿自美濃還則更都於纏向是謂日代宮」
【四年の春二月の朔が甲寅の甲子の日に、天皇が、美濃に行幸した。付き人が「この国に美人がいる。弟姫という。姿かたちが整っていて立派だ。八坂入彦皇子の娘です」と奏上した。天皇は、妃にしようと思って、弟姫の家に行幸した。弟姫は、天子が輿に乗ってきたと聞いて、竹林に隱れた。そこで、天皇は、弟姫が出てくるように考えて、泳宮にいて鯉を池に浮べて、朝から夕までに眺め視て遊んでいた。その時に弟姫が、その鯉が泳ぐ姿を見ようと、密にやって来て池を遠くから眺めた。天皇は、それで逃がさないようにと止めて池に通した。弟姫と夫婦になる方法は古も今も同じ方法だ。ところが、可愛そうなことに姫は天皇に「私は、関係を持ちたいと思わない。今は気分がすぐれず、天皇の命令で宮に招かれてしばらく考えけれど、気乗りせず、また私はすがたかたちもよくなく心もせまい。永く後宮に共に従うことが出来ない。ただ、姉がいて名を八坂入媛といいます。すがたかたちはきらびやかで美しく心根は操を固く守り、いさぎよい。後宮に呼び入れてください」と頼んだ。天皇が許して八坂入媛を妃に呼び寄せた。七人の男子と六人の女子を生んだ。第一を稚足彦天皇という。第二を五百城入彦皇子という。第三を忍之別皇子という。第四を稚倭根子皇子という。第五を大酢別皇子という。第六を渟熨斗皇女という。第七を渟名城皇女という。第八を五百城入姫皇女という。第九を麛依姫皇女という。第十を五十狹城入彦皇子という。第十一を吉備兄彦皇子という。第十二を高城入姫皇女という。第十三を弟姫皇女という。又妃の三尾氏磐城別の妹水齒郎媛は、五百野皇女を生んだ。次妃の五十河媛は、神櫛皇子・稻背入彦皇子を生んだ。その兄の神櫛皇子は、讚岐国造の始祖だ。弟の稻背入彦皇子は、播磨別の始祖だ。次妃の阿倍氏木事の娘の高田媛は、武国凝別皇子を生んだ。これは伊豫国の御村別の始祖だ。次妃の日向髮長大田根は、日向襲津彦皇子を生んだ。これは阿牟君の始祖だ。次妃の襲武媛は、国乳別皇子と国背別皇子と豊戸別皇子とを生んだ。その兄の国乳別皇子は、水沼別の始祖だ。弟の豊戸別皇子は、火国別の始祖だ。それで天皇は男女、前後あはせて八十人の子を生んだ。しかし、日本武尊と稚足彦天皇と五百城入彦皇子を除いた外の、七十人余の子は、みな国郡に封じて、おのおのの国に赴いた。それで、今、諸国の別というのは、その別王の名跡だ。この月に、天皇は、美濃国造の名は神骨の娘で、姉の名は兄遠子、妹の名は弟遠子、共にその国に美人がいると聞き、大碓命を派遣して、その女の容姿を観察させた。その時に大碓命が、密通して復命しなかった。それで大碓命を恨んだ。冬十一月の庚辰の朔に、輿に乗って、美濃から還った。それで纏向に都を造った。これを日代宮という。】とあり、標準陰暦と合致する。
もちろん、この子供たちは景行天皇一人の子ではなく、大足彦の長男相続と、この時代に当てはめた尾張王朝・物部王朝・倭国王朝・毛野王朝など多くの王の皇子・皇女たちをまとめてあると考えられる。
『古事記』「大帯日子天皇之御子等所録廿一王不入記五十九王并八十王」とあるように、21王が大帯日子王朝の代々の子で59王は他家の子で、祖とあるのは大足彦の王朝が新たに支配する領地で、妃日向髮長大田根の子が日向襲津彦、「日向國有孃子名髮長媛即諸縣君牛諸井之女」とやはり髮長に住む姫が仁徳妃で髮長姫は襲名され、日向諸縣君牛も襲名され、「日向諸縣君牛仕于朝庭」と日向諸縣君は畿内に出仕し、畿内へ一緒に出仕した皇子も当然襲津彦で神武東征の出発地は日向国で葛城氏が神武天皇だったので、襲津彦は葛城に養子して葛城襲津彦を襲名することになる。
豊国別皇子が日向国造の祖だが、君と国造では君が偉そうなので、豊国別は襲津彦の皇子の可能性が有り、『紀氏家牒』には葛城国造荒田彦の娘の葛比売が母親で「葛城長江曽都毗古」と言うように葛城の長江で生まれ、襲津彦は5世紀で景行天皇は2世紀と、かなりの襲名が続いている。
すなわち、大足彦と髮長大田根の子の日向襲津彦が日向諸縣君を継ぎ諸縣君襲津彦となりその姫の髮長姫と大雀である武内宿禰の子も諸縣君襲津彦でその皇子がすなわち襲名武内宿禰であり諸縣君襲名の襲津彦が葛城国造荒田彦の娘の葛比売に婿入りして子が葛城襲津彦と呼ばれたということで、日向襲津彦と葛城襲津彦は(義)兄弟若しくは(義理の)従弟の可能性がある。
要するに、襲名される名は役職の諸縣君・出身地の襲津・活躍している地名日向・葛城で武内宿禰も出身地が武の内で役職が宿祢・足彦で活躍地が紀伊や若国や「なか国」である。
ここから『日本書紀』の安康天皇までを書いた平群王朝が景行天皇から応神天皇は武内宿禰・襲津彦の葛城王朝、仁徳天皇は平群王朝の歴史を挿入したことを立証していくことになる。
そして、景行天皇の一人は美濃にいた皇子で、日葉酢媛の宮から八坂媛(尾張大海媛)の宮に首都が変って尾張氏王朝がゆるぎないものとなったようだ。
そして、尾張十世の一人は『舊事本紀』「大原足屋筑紫豊國國造等祖置津與曽命之子」と置津與曽の子で「四世孫羸津世襲命亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖」と四世から十世まで、七世大海媛も含めて同じ宮・首都で過ごしている。
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