2019年9月23日月曜日

最終兵器の目 景行天皇9

 『日本書紀』慶長版は
四十年夏六月東夷多叛邊境騷動秋七月癸未朔戊戌天皇詔群卿曰今東國不安暴神多起亦蝦夷悉叛屢略人民遣誰人以平其亂群臣皆不知誰遣也日本武尊奏言臣則先勞西征是役必大碓皇子之事矣時大碓皇子愕然之逃隱草中則遣使者召來爰天皇責曰汝不欲矣豈強遣耶何未對賊以豫懼甚焉因此遂封美濃仍如封地是身毛津君守君二族之始祖於是日本武尊雄誥之曰熊襲既平未經幾年今更東夷叛之何日逮于大平矣臣雖勞之頓平其亂則天皇持斧鉞以授日本武尊曰朕聞其東夷也識性暴強凌犯爲宗村之無長邑之勿首各貪封堺並相盜略亦山有邪神郊有有姦鬼遮衢塞俓多令苦人其東夷之中蝦夷是尤強焉男女交居父子無別冬則宿穴夏則住樔衣毛飲血昆弟相疑登山如飛禽行草如走獸承恩則忘見怨必報是以箭藏頭髻刀佩衣中或聚黨類而犯邊界或伺農桑以略人民擊則隱草追則入山故往古以來未染王化今朕察汝爲人也身體長大容姿端正力能扛鼎猛如雷電所向無前所攻必勝即知之形則我子實則神人寔是天愍朕不毀旦國不平令經綸天業不絶宗廟乎亦是天下則汝天下也是位則汝位也願深謀遠慮探姦伺變永之以威懷之以德不煩兵甲自令臣?()即巧言調暴神振武以攘姦鬼於是日本武尊乃受斧鉞以再拜奏之曰嘗西征之年頼皇靈之威提三尺剱擊熊襲國未經浹辰賊首伏罪今亦頼神祗之靈借天皇之威往臨其境示以德教猶有不服即舉兵擊仍重再拜之天皇則命吉備武彥與大伴武日連令從日本武尊亦以七掬脛爲膳夫冬十月壬子朔癸丑日本武尊發路之
【四十年の夏六月に、東の夷が多数反乱を起こし、辺境で騒動が起きた。秋七月の朔が癸未の戊戌の日に、天皇は、役人に「今、東国は落ち着かず、暴徒がたくさんいる。また夷がことごとく反乱を起こしてしきりに人をさらう。誰を派遣すればその反乱を平定できるか」と詔勅した。役人は皆、誰を派遣すればよいか見当がつかなかった。日本武尊が「私は以前に西征で働いた。今度の戦争は絶対に大碓皇子の仕事だ」と奏上した。その時大碓皇子は、とても驚いて、草の中に逃げ隱れた。それで使者を派遣して招集した。そこで天皇は「お前が出来ないことをどうして強いると言うのだ。どうして敵と対決しもしないで、最初からそんなに恐れるのだ」と責めた。それで、美濃に閉じ込められ、それで、流刑のようだった。大碓皇子は身毛津君・守君、全てで二族の始祖だ。そこで、日本武尊は、「熊襲は既に平定し、まだそれほど月日が経っていないのに、今また東方の夷が反乱した。何時になったら大平となるのだ。私は、労を惜しまないので、急いでその乱を平定しよう」と役人に大声で告げた。それで天皇が、斧とまさかりを、日本武尊に授けて「私が聞くところによると、その東方の夷は、考え方が荒くて強引だ。力ずくで他国を侵犯することを考えている。村に宗主がなくて、邑に首領いない。それぞれが村邑の境界を飽くことなくほしがって、互いに略奪しあう。また山に邪な者がいる。街はずれに悪賢い禍をもたらす者がいる。要衝で遮り道を通れなくする。多くの人を苦しめる。その東方の夷の中で、蝦夷は尤も強敵だ。男女が一緒に住んで父子も別れて住まない。冬は穴で寝て、夏は木の上に住む。毛皮を衣て血を飮んで、兄弟は互いに疑いあっている。山に登るときは飛ぶ鳥のようで、草むらを獣のように走る。恩を受けても忘れ。恨みを持ったら必ず報復する。それで、くさびをもとどりに隠し、刀を衣服の中に隠す。あるいは徒党を組み、境界を侵犯する。あるいは桑が茂って貯えが出来た時を見計らって人民から略奪する。矢でうとうとすると叢に隱れる。追っていけば山に入る。それで、昔からまだ王化されていない。今、私が、お前をみると、体つきは身長が高くてがっしりしていて、顔つきは見事だ。力は大亀を持ち上げるほど強い。あらあらしく強くて稲妻のようだ。向う所敵なしで、攻めれば必ず勝つ。姿かたちは良く知っている我が子だが、実際は神ではないかと感じる。ほんとうに、私を害い国が乱れることを憐れんで、国家の秩序をととのえ治め、宗廟を絶やさないようにする天の思し召しだ。またこの天下はおまえの天下だ。天皇の位はおまえの位だ。できたら先々まで考え深く計画を立て、不正を探り、異常を伺って胸中の威徳で兵力を煩わさないで自然に従う臣としろ。すなわち、言葉巧みに荒々しい王を教育して、武器を振るって、悪賢い鬼のような者を追い払え」と言った。そこで、日本武尊は、斧と鉞を受け取って、再度ぬかずいて「かつて、西方を征った年に、朝廷の威光に頼よって、1mの剱を堤て、熊襲国を撃った。まだ、星が一巡りしても、賊長は罪に服していない。いままた神祇の霊に頼って、天皇の威光を借りて、敵地に往ってその境界を臨んで、徳のおしえでも、服従しないのなら、挙兵して討とう」と奏上した。それで再度重ねてぬかずいた。天皇は、すなはち吉備武彦と大伴武日連とに命じて、日本武尊に従わせた。また七掬脛を料理人とした。冬十月の朔が壬子の癸丑の日に、日本武尊は、出発した。】とあり、標準陰暦と合致する。
この記述は興味深い内容で、この当時の畿内王朝の人々は親子・男女別々に暮らしている、すなわち、朝廷の宮が有って傍に姫の宮や皇子の宮が別々に点在し、蝦夷も賊と記述しているが、それはもちろん名目上で対立した国の一つで、集落の出入り口には守衛がいて、要衝にも守衛がいて、王は一段高い岡に居を構えているようだ。
蝦夷国は毛皮を着て血を飲むのだから肉も食しているようで、『山海經』の海外東經の「君子國在其北衣冠帶劍食獸」と食習慣が合致し、現代でもスッポンの血を飲む習慣があり、「大蛇」は神話時代からの敵対勢力である。
また、皇位も大碓を幽閉したのだから、小碓は皇太子になって、天皇が天下は皇太子のもの、皇位は皇太子のものと言ってあたかも皇太子が天皇だと呼んで、ここでの日本武尊は熊襲での華奢で助走が出来る日本武尊とは全く別人で、熊襲の日本武尊説話は市乾鹿文の記述を証明して、何人もの人物が日本武尊の説話として記述されている。
これは私が主張する、皇太子は実質国を経営する最高責任者で天皇は祭祀的代表者に過ぎないと言ってきたそのものの記述で、同家の皇位後継者が皇太子で外戚の次代もしくは前代の皇位継承者が大臣で地位としては同等である。
なお、封地を流刑地としたのは、古史に封建制度の封地の用語が見つからなかったからで、領地なら、国造になったと記述するはずで、婿入りしたのなら封じたとわざわざ記述する必要もなく、また如の文字も封地の用語に合わない。

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