前項に続けて、『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・此謂意富多ゝ泥古人所以知神子者上所云活玉依毘賣其容姿端正於是有壮夫其形姿威儀於時無比夜半之時儵忽到來故相感共婚供住之間未經幾「時其美人妊身尓父母恠其妊身之事問其女曰汝者自妊无夫何由妊身乎荅曰有麗美壮夫不知其姓名毎夕到來供住之間自然懐妊是以其父母欲知其人誨其女曰以赤土散床前以閇蘇紡麻貫針刺其衣襴故如教而旦時見者所著針麻者自戸之鉤穴控通而出唯遺麻者三勾耳尓即知自鉤穴出之状而從糸尋行者至美和山而留神社故知其神子故因其麻之三勾遺而名其地謂美和也此意富多ゝ泥古命者神君・鴨君之祖」【この意富多多泥古という人を、神の子と知ったのは、前に言った活玉依毘賣の容姿が端正で、そこに若者がいて、その姿形や立居振舞が類なく、夜中に急にやって来て、互いに見染めて、一緒に過ごす間に、あまり時を経ず、その娘が妊娠したので、父母が妊娠した事を怪しみ、娘に「お前は知らないうちに妊身した。夫も無いのにどうして妊娠した。」と問うと、「うるわしい若者がいて、名も知らないけれど、夕毎にやって来て一緒にいる間に、妊娠した。」と答え、それで父母は、その者を調べようと、「赤土を床の前に散らし、巻き付けた紡いだ麻糸を針に通し、男の衣の襴に刺せ。」と教え、それで、教の様にして翌日に見ると、針を著けた麻は、戸の鉤穴から通り抜けて、ただのこった麻は三勾のみだったので、鉤穴から出たのを知って、糸に従って尋ねて行くと、美和山の神の社に留まってた。それで、その神の子と知った。それで、その麻の三勾を遺したため、そこを美和と名付けた。この意富多多泥古は、神君、鴨君の祖だ。】と訳した。
前項で述べたように、一人ではなく襲名した多数の大物主が存在するが、おそらく、史書は、崇神天皇の時代の説話が神話に当て嵌められたり、神武天皇の時代に当て嵌められたりしただけで、『古事記』の神武天皇の一人は崇神天皇の時代に大物主と勢夜陀多良比賣の子の比賣多多良伊須氣余理比賣を妻にし、『舊事本紀』の前2世紀頃の神武天皇は崇神天皇の時代ではなく神武天皇の時代に当て嵌めた。
実際の大物主説話は大物主の建飯賀田須と鴨部美良姫の娘を妃にした中国を建国した中臣氏の説話が大元の説話と考えられ、美良姫を活玉依毘賣に挿げ替え、実際は奇日方とその妃の賀牟度美良姫のことを述べていると思われる。
崇神天皇には、『古事記』の神武天皇、坐王・倭得玉、大御氣持などを含めて記述し、『古事記』には雄略天皇七年に「三諸岳神」を「或云此山之神爲大物代主神也或云菟田墨坂神也」と記述して大三輪神を記述せず、実は一言主が大物主だと述べ、『古事記』には葛城の神の一言主を記述し、大物主は現在の仲国に琴平宮とういう本拠が有り、元々は中臣氏が祀っていた可能性が高い。
雄略天皇は前天皇の殺害を中帯姫前皇后の子の眉輪王の仕業と記述しているが、中帯姫は中国王を意味しており、安芸を支配した前皇后の祖神と考えられる大物主、雄略天皇の妃の吉備上道臣の神を敬って、平郡氏の祖神の一言主と合祀した意味が理解でき、中臣氏の関与が窺える。
三輪神は三嶋溝橛耳が祀った神八→神倭→三輪と変質したものと考えられ、それを、大物主神や墨坂神などまとめて萬神と呼び、『日本書紀』に記述し、八十萬神は八国の十柱の萬神で、その中で、大物主神・墨坂神・神倭神を併せて三八萬神・三輪神と考えた。
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