『日本書紀』は続けて概略「夏四月戊申が朔の丙寅に、活目を皇太子、六十年秋七月丙申が朔の己酉に、武日照(あるいは武夷鳥又は、天夷鳥という)が天から持って来た神寶を、出雲大神の宮に秘蔵し飯入根は、皇命を受けて、神寶を、弟の甘美韓日狹と子の鸕濡渟が矢田部造の遠祖の武諸隅(大母隅)に渡し、それで、内紛が起こって出雲振根を誅したため、大神を祀らなくなったので、丹波の氷上の人、名は氷香戸邊の提案で甘美の御神、底寶御寶主を祀らせた。六十二年秋七月乙卯が朔の丙辰に依網池を十一月に、苅坂池・反折池を作り、六十五年秋七月に、任那國が、蘇那曷叱知を派遣して、朝貢した。任那は、筑紫國を去ること二千餘里で。北に、海を隔てて鷄林の西南に在る六十八年冬十二月戊申が朔の壬子に崩じ百二十歳だった。明年の秋八月甲辰が朔の甲寅に、山邊道上陵に葬った。」とある。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「四年春二月丁卯建膽心命為大祢多辨命爲宿祢安毛建姜命爲侍臣並物部連公祖也三(四)十八年春正月己卯朔戊子天皇勑豐城命活目尊曰汝等二子慈愛但齋不如何爲嗣各冝夢朕以夢占之二皇子被命得沐浴而祈寐各得夢矣會明兄豐城命以夢辞奏于天皇日自登三諸山向東而八迴弄搶八迴撃刀弟活目尊以夢辞奏言自登三諸山之嶺繩絙四方逐食粟雀則天皇相夢謂二子曰兄則一片向東當治東國弟是悉臨四方冝継朕位焉」、【四年春二月丁卯、建胆心を大祢、多弁を宿祢、安毛建美を侍臣とし、これらは物部連の祖だ。四十八年春正月己卯が朔の戊子に、天皇は豊城と活目に「お前たち二人は、どちらも同じに可愛い。どちらを跡継ぎにするか考えている。それぞれ夢を見て、夢で占うことにしよう」と言った。二人は命令をきいて、沐浴して祈って寝て夢をみた。夜明けに兄の豊城は、夢のことを天皇に「三諸山に登って、東に向かって八度槍を突き出し、八度刀を振りました」と言った。弟の活目も、夢を「三諸山の頂きに登って、縄を四方に引き渡し、粟を食べる雀を追い払った」と言った。そこで、天皇は夢の占いをして、二人に「兄はもっぱら東に向かっていたので、東国を治めるとよい。弟はあまねく四方に心を配っているので、わが位を継ぐとよい」と言った。】と訳した。
ここで言う、神寶を持って来た武日照は『古事記』の「天菩比命之子建比良邊(?鳥)命此出雲國造・・・等之祖也」の建比良鳥のことで、『日本書紀』にも比良鳥の父の「天穂日命是出雲臣・・・等祖也」と記述され、神寶を祀っていた出雲振根が物部氏に神寶を献上したために出雲臣を賜姓され、『舊事本紀』には内紛が記述されずに安泰で、それは、彦湯支が「出雲色多利姫」を妃にし、出雲醜大臣と大国の出雲氏を名乗り、出雲臣の娘の沙麻奈姫を懿徳天皇の甥の建飯勝が妃として建甕槌を生み、子の大田田祢古も、その子の大御氣持も「出雲神門臣女美氣姫」、「出雲鞍山祇姫」を妃とし、その子の大鴨積が賀茂君、大友主が大神君を賜姓されるのだから、母系の出雲氏も出雲臣を賜姓されたと考えられ、それらの他王朝の姓の君・臣を崇神天皇が追認し、それが出雲振根だったとすればよく理解でき、他王朝の姓の日臣を崇神天皇も道臣と姓の臣を追認した。
それに対して、『日本書紀』は丹波道主が出雲振根を殺して、配下とみられる氷香戸邊が出雲振根の弟の甘美韓日狹達に出雲を任せ、これが、4道派遣の「丹波道主命遣丹波」の説話と考えられ『古事記』では坐王の玖賀耳之御笠殺害と役職が異なる原因で、説話発生が1世代異なる。
崇神天皇の九州の暦使用は「伊香色雄而以物部八十手所作祭神之物」、「墨坂神・大坂神を祀る」、「4道侵攻」、「故稱謂御肇國天皇」、「池造り」で、正しい暦は「皇位継承説話」・「大田田根子探索」・「正朔不採用批判」・「4道出撃」・「出雲振根説話」と宗教的説話は九州暦で政治的説話は畿内暦となっていて、宗教の代表者の物部氏と天皇の対立が想定され、4道侵攻は『古事記』が3道のように、吉備への侵攻が記述されず、神武東征で、日向から安芸まで九州暦と無関係では無く、ここの九州の暦の説話は垂仁天皇の説話の可能性があり、崇神朝の正朔の暦を拒否し、漢と同じ晦日が朔の暦を使用する分朝廷の可能性があり、分朝廷は東国を治めた豊城の朝廷である。
0 件のコメント:
コメントを投稿