2022年3月25日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書8

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は続けて「夏四月戊申朔丙寅以活目尊立爲皇太子以豐城命令治東國六十年春二月詔群臣日武日照命従天將來神寶藏于出雲大神宮是欲見焉則遣矢田部造遠祖武諸隅令使分明撿定獻奏焉六十五年春正月武諸(?)命為大連物部氏祖六十八年冬十二月戊申朔壬子天皇崩時年百二十歳也明年秋八月甲辰朔甲寅葬于山邊道上陵誕生皇子六男五女兒汝目入彦五十狹茅尊次彦五十狹茅尊次國方姬命次千々衝倭姬命次倭彦命次五十日鶴彦命次豐城入彦命次豐鍬入姬命始託天照太神為斎祠次入坂入彦命次渟中城入彦命次十市瓊入姬命 初託天田魂神為齋祭」、【夏四月戊申が朔の丙寅に、活目を皇太子とした。豊城には東国を治めさせた。六十年の春二月、天皇は群臣に「武日照が天から持って来た神宝は、出雲大神の宮に収めてある。これを見たい」と言った。そこで、矢田部造の遠祖の武諸隅を派遣し、詳細に調べて、報告させた。六十五年の春正月、武諸隅を大連とし、物部氏の祖だ。六十八年の冬十二月戊申が朔の壬子に、天皇が崩じた。年令は百二十歳だった。翌年の秋八月甲辰が朔の甲寅に、山辺道上陵に葬った。天皇は六男五女を生んだ。(系図は略す)十市瓊入姫ははじめて大国魂神を祀った。】と訳した。

夏四月戊申朔丙寅の立太子は、西暦69年から48年後の116年に倭奴国は都を変えた王を記述していると思われ、『後漢書』の「安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見」と107年、安帝に接見を願った帥升の王朝と考えられる。

『三国史記』の新羅では西暦73年「脱解尼師今十七年王遣角干羽烏禦之不克羽烏死之十八年秋八月百濟寇邊遣兵拒之」、これは、百濟では多婁王46年にあたり「四十七年秋八月遣將侵新羅」とやはり百濟と倭が協力して新羅を攻撃し、「桓靈之末・・・是後倭韓遂屬帶方」と倭と韓は共に帯方郡に服属したが、73年に『三国史記』の新羅脱解尼師今王の時に和睦の約束を破って、「倭人侵木出島」と新羅を侵略した。

それは、百濟と新羅が西暦70年、「多婁王四十三年遣兵侵新羅・・・四十七年秋八月遣將侵新羅四十八年冬十月又攻蛙山城拔之四十九年秋九月蛙山城為新羅所復」と西暦76年まで戦っており、70年新羅脱解尼師今王「十四年百濟來侵・・・十八年秋八月百濟寇邊遣兵拒之十九年・・・冬十月百濟攻西鄙蛙山城拔之二十年秋九月遣兵伐百濟復取蛙山城自百濟來居者二百餘人盡殺之」と76年まで新羅も記述して、倭と百濟が共同で新羅を侵略したと考えられる。

この時期に、『日本書紀』に百濟の記事が記述されず、新羅の日槍記事など、新羅との友好記事が記述され、畿内と新羅に対する百濟と倭の関係が理解できる。

48年の豐城・活目の皇位継承争いは孝昭天皇の末裔の丸迩臣の祖の日子國意祁都の妹の意祁都比賣娶った日子國意祁都をバックにした日子坐王の子の息長水依比賣を娶って生まれた丹波比古多多須美知能宇斯王とその子の丹波の河上の摩須郎女を娶って生まれた朝庭別王と、丹波比古多多須美知能宇斯王の弟の水之穗眞若王と意祁都比賣の妹の子の山代之大筒木眞若王の争いで、丸迩臣の祖は春日臣の祖でもあり、春日王だったと思われ、春日の建國勝戸賣もその一族の可能性が高く、その孫の沙本毘古王が山代之大筒木眞若王・水之穗眞若王の後ろ盾だった可能性が高い。

坐王の子の沙本毘古王は『古事記』に「沙本毗古王者日下部連甲斐國造之祖」と甲斐国造の祖、『舊事本紀』に「次大八椅命甲斐國造等祖彦與曽命之子」、「甲斐國造纏向日代朝世狹穗彦王三世孫臣知津彦公此宇塩海足尼定國造」とあり、彦與曽は弟彦の弟、尾張氏で坐王が尾張氏であると、ここでも証明された。

また、物部の祖と賜姓されない物部武諸隅が大連は奇妙で、武大連だったことが解り、尾張氏の建諸隅も建大臣で違う王朝の立場、大連が皇太子と同等の王朝と大臣が皇太子と同等の王朝から見た、同一人物を朝廷分裂後に記録したことを示していると思われる。

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