2022年3月14日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書3

  『日本書紀』は続けて概略「四年冬十月庚申が朔の壬午に、天皇の威光を拡げようとしたが、國内に疫病が多発し、人民が半数位死亡したので、世情が不安定で神に頼もうと天照大神を豐鍬入姫に託し、日本大國魂神は、渟名城入姫に祭らせたがうまくいかなかった。七年の春二月丁丑が朔の辛卯に、神に頼もうと、八国の十柱の萬神を集めて、卜ったら神明倭迹迹日百襲姫に憑いて、天皇の夢見で大物主神の子の大田田根子に祭らせた。大田田根子の父は大物主大神で母は活玉依媛で陶津耳の娘、または、奇日方天日方武茅渟祇の娘で三輪君の始祖だ。九年春三月甲子が朔の戊寅 四月の甲午が朔の己酉に、夢の教えどおり、墨坂神・大坂神を祭った。そして、倭迹迹日百襲姫のために箸墓を造った」とある。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「此天皇之御世伇病多起人民死爲盡(尽)尓天皇愁歎而坐神牀之夜大物主大神顯於御夢曰是者我之御心故以意富多々泥古而令祭我御前者神氣不起國(亦)安平是以駅使班于四方求謂意富多多泥古人之時於河内之美努村『----大安萬呂編 見得其人貢進尓天皇問賜之汝者誰子也荅曰(白)僕者大物主大神娶陶津耳命之女活玉依毗賣生子名櫛御方命之子飯肩巣見命之子建甕槌命之子僕意富多多泥古白於是天皇大歓以詔之天下平人民榮即以意富多多泥古命爲神主而於御諸山拝祭意富美和之大神前又仰伊迦賀色許男命作天之八十毗羅訶定奉天神地祇之社又於宇陀墨坂『大安萬呂編---神祭赤色楯矛又於大坂神祭黒色楯矛及河瀬文(神)於坂之御尾尾神悉無遺忘以奉幣帛也山大安萬呂編---』『?---因此而伇氣悉息國家安平也・・・」【この天皇の世に、疫病が多発して、人民が多数死んだ。それで天皇は愁い歎いて、祭壇に居た夜に、大物主大神が、夢に現れて、「これは私の意志だ。それで、意富多多泥古に、私の前で祭らせれば、神の力が起らず、国は安らかに平らぐ。」と言った。それで驛使を四方に派遣して、意富多多泥古という人を求めた時、河内の美努村にその人を見つけ連れて来た。そこで、天皇は、「お前は誰の子だ。」と問うと、「私は大物主大神、陶津耳の娘の活玉依毘賣を娶って生まれた、櫛御方の子、飯肩巣見の子、建甕槌の子、私は意富多多泥古だ。」と答えた。それで、天皇はとても歓んで、「天下が平らぎ、人民が栄えるだろう。」と言って、意富多多泥古を神主として、御諸山に意富美和大神の前を祭らせた。又、伊迦賀色許男に言って、天の八十毘羅訶を作って、天神地祇の社を定めて奉った。又、宇陀の墨坂神に赤色の楯矛を祭り、又、大坂神に墨色の楯矛を祭り、又、坂の御尾神、及び河瀬神に、残らず忘れないように幣帛を奉った。これによって、疫病は全て終息して、国家が平安となった。】と訳した。

『舊事本紀』は陶津耳ではなく大陶祗の娘となっているが、同じ説話があり、三諸山の大神が大巳貴と記述され、「大三輪大神其神之子即鴨君大三輪君」、事代主の系図にも活玉依毘賣の子の奇日方(櫛御方)→(建飯勝)→建甕槌→(建甕依→大御氣主)→飯賀田須→大田田祢古→大御氣持→大鴨積・大友主と継がれ、大鴨積が「賜賀茂君姓」、大友主が「此命同朝御世賜大神君姓」と大三輪君を賜姓され、大田田祢古に、大三輪神を祀らせたと、大巳貴の説話を思わせる。

すなわち、大巳貴と活玉依毘賣の子の三輪大神の大物主、事代主と活玉依毘賣の大物主大神、高皇産靈の娘の三穂津姫を娶る大物主、大物主の子と名乗る大田田祢古は出雲神門臣の娘の美氣姫を妃とし、『日本書紀』では「大物主神曰・・・吾兒大田田根子」なので飯賀田須が大物主となり、妻は鴨部美良姫、「天皇姑倭迹迹日百襲姫」が「倭迹迹日百襲姫命爲大物主神之妻」と記述され、鴨部美良姫が倭迹迹日百襲姫で、大御氣持も大倭國民磯姫を妃にすることで、大三輪大神を襲名したと思われ、実際に賜姓されたのは『日本書紀』では垂仁朝でも「祖」と記述され、仲哀朝が初出の大三輪大友主君である。

すなわち、複数の神武天皇、大物主の娘婿・大巳貴の娘婿・大三輪大神の娘婿・事代主の娘婿の神武天皇が存在し、それが神武紀の侵略の説話に接合され、少なくとも、正しくない朔の日干支の説話は異なる時代の異なる神武天皇の説話と考えられる。

倭迹迹日百襲姫は孝霊天皇の姫だが崇神天皇が姑と呼び、ここで、倭迹迹日百襲姫を姑と呼べるのは開化天皇か大彦、建飯賀田須の兄弟の和迩君の祖の阿田賀田須の子、すなわち、阿田賀田須の妃の兄弟の子、すなわち、和迩臣の祖の子達がその候補で、御間城入彦は姑と呼べず、崇神紀に出現する人物では、大彦が一番妥当し、大彦も崇神天皇と考えられる。

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