さらに、「扶桑国」は『梁書』に「宋大明二年 賓國嘗有比丘五人游行至其國 流通佛法 經像 敎令出家」と457年に仏教が始まり「齊永元元年 其國有沙門慧深來至荊州」と僧が訪中している499年に「國王爲乙祁」と国王が「乙祁」と呼ばれている国は『古事記』の「袁祁王兄意祁王坐石上広高宮治天下也」と仁賢天皇の崩御翌年である。
『山海經』の縄文の国の時代から続く扶桑という地域あったという常識は西暦500年以降まで続き、日本人自ら名誉ある地域の名・歴史ある名と自負していたことが解り、扶桑という言葉自体が元々日本語であった可能性がある。
縄文の国に対して倭人の国は、『山海經』の時代より後に「伊奘諾伊弉冉」大神が6合も含めて大八島を国産みしたが、『古事記』も『先代旧事本紀』も、淡路島を建国の地とする神話になっている。
さらに『古事記』では「天之御中主神 次高御産巣日神」と高御産巣日の地を御中主神が奪い、『先代旧事本紀』では「伊弉諾尊 天降陽神 伊弉冉尊 天降陰神 別高皇産霊尊」と高御産巣日が天皇の璽を渡す主役になって出現して、淡路島の高天原を建国の地とした高御産巣日が最高位の神と述べているようで、高御産巣日の神話を御中主神が拝借したようだ。
高御産巣日が淡路洲で国産みした神話を打ち消すため、『日本書紀』は「及至産時 先以淡路洲爲胞 意所不快 故名之曰淡路洲」と恥の島と呼んで高御産巣日の国を滅ぼし、『先代旧事本紀』を記述した時代は高御産巣日の子孫が日本を支配していたことになる。
『日本書紀』の神話対象時代、大八島の対岸の本州・九州・四国では『山海經』で述べたように「義均」などの「八」国と同族の国が存在していて、天照大神の末裔が本州を支配するのは後のことで、青銅器が流入するころになる。
「天照大神」の子自体が「天忍穂耳」と「八」国の官名「耳」を与えられ、天降った「彦火瓊瓊杵」は「天津彦」という天国の官名を得て、官名があるということは王では有り得ない。
『先代旧事本紀』には「伊奘諾伊弉冉」が国産みする以前に「主・国造・直・首」の官位を持つ人々の神々が記述され、物部氏は倭以前の国々を統治したことを宣言していて、「八」国を支配したということで、これらの官名の古さを示している。
「八」国の構成国が誕生していて、中国の神話の5帝が活躍する時代のことを書いた『山海經』には『海内東經』という黄海を書いた部分に、670年建国の新生日本の前身の「倭」が書かれて、倭は黄海にあったとされ、まだ国と呼ばれていない。
素戔嗚が出雲で「八岐大蛇」と戦い「草薙劔」を得ているが、州をクニと呼び、島を州とし、壱岐も州でクニ、岐もクニの可能性が有り八国の大という地域の蛇神を祀る人と戦ったという意味だ。
君子国を頂点に多くの国の盟主となり、主や耳といった官名をもち、政務を宮で行った、『漢書』に「分爲百餘國」と記述される前身の国・地域が『山海經』に記述された地域で、漢時代に倭の別種が君子国の地位を奪ったと考えられる。
東アジアには中国が国と呼べない時代から国と呼べる国が多く存在し、特に日本列島に国が集中して存在し、中国の伝説の神々が日本列島で活躍していたことが解り、さらに、中国象形文字の前段階の文字「大・人・神・三・九・州・国・身」などの古字を日本側も共有していた可能性もある。
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