古代は通い婚で姫が生まれ婿を迎えるために宮が造られ婿を迎え入れた時から宮年齢が始まるので、天皇に就任する時はその天皇に13歳以上の皇太子が必要で、皇太子が実質天皇にあたり、既に少なくとも2代目ということになる。
そして、その記録が『先代旧事本紀』で、紀元前660年建国の王朝を受け継いだ物部氏であるがために歴代の年干支・日干支が残され、『日本書紀』では神武元年以降年干支を含めた日付は記述されず天皇何年と月・日付とが記されている。
『先代旧事本紀』の最後の正しい日干支・年干支が記述されたのは「元年歳次丙午春正月壬子朔」の用明天皇元年で、これ以降は日本書紀と合わないため、何時の事柄か特定できないように年干支を削除したのだろう。
そして残った記録を基に日干支を付加していって、誤差の少ない干支が割り振られたのであり、間違っていたり、是年や是月などは記録と合わない干支だった可能性があり、また、全く見当違いの干支が割り振られているものは、挿入場所を変えた可能性がある。
そして、その記録を残す方法は不明だが、『古事記』に「坐高千穂宮、伍佰捌拾歳」と580年間続いた記録が残っていたが、『古事記』を書いた王朝が記録を残し始めた頃にまだ高千穂の宮が残っていて、その記録も残っていたことが解る。
その記録が『日本書紀』の履中紀403年「記言事達四方志」の記事で高千穂宮は紀元前180年頃から始まって、『日本書紀』・『古事記』の神話に流用されたのではないか。
また、『日本書紀』仁賢天皇紀に「億計天皇之宮有二所焉。一宮於川村。二宮於縮見高野。其殿柱至今未朽」と『日本書紀』の仁賢紀を書いた、少なくとも推古天皇のころまで仁賢天皇の宮が残り、その宮に『古事記』の原本が残っていた可能性が高い。
その残った『古事記』の原本に武烈天皇以降を継ぎ足した可能性が高く、『古事記』の原本は『梁書』の「有文字,以扶桑皮爲紙」と扶桑の木の皮を剥いで史書を記録して『古事記』の原本を残したのだろう。
日本には古代文字というものが遺物で残り、『山海經』の時代から扶桑の木を重要視し、漆やタールを接着剤や防腐剤に使っていたようで、これらは素手で使うとかぶれるので、筆様の道具を使ったと思われる。
干支の記録に扶桑の皮を使い、漆やタールを筆に付けて墨替わり、糊替わりとして、古代文字で扶桑の皮を接着した巻物に書かれて、高千穂の宮に残ったと言われても私は驚かないし、伊都の地域には硯や文字を書いた土器が出土し、「硯が渡って文字は渡ってこなかった」ことを信じられない。
私は『上記』という古代文字をひらがなに写し替えたものを読んだことが有るが、私には原文を解釈できないので翻訳者すら信頼できないが、この翻訳文書は漢字をひらがなにした文や、『日本書紀』の「四方志」の記事が書いてあり、早くて5世紀に書かれた漢字を知らない人のために書かれた地方文献なのだろう。
漢字を知っているのに、わざわざ古代文字を考える酔狂な人物は考えられないので、漢字が行きわたる前に古代文字が行きわたっていた地域が有ったことを物語っていて、『室見川銘版』の「延光四年」125年には室見川周辺に篆書と漢字を書く能力が有る周時代から中国と交流のある政権が応神天皇以前に存在した。
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