2018年7月18日水曜日

最終兵器の聖典 日本史誕生2

 すなわち、中国人も日本人も「羲和」以降1年366日と知り、民間の2倍年歴と朝廷内の1年366日が併存していたか、2倍年歴は「羲和」以前の伝説であった可能性が高く、日本では夏至・冬至・春秋分・北極星を示す巨石が下呂近くの岩屋岩陰遺跡に残っていてどちらが早いか解らないが「羲和」以前から1年366日を知っていた可能性もある。
そして、『史記 本紀 周本紀』に「武王即位・・・二月甲子昧爽武王朝至于商郊牧野乃誓 武王左杖黃鉞右秉白旄以麾」と干支が記述され、周の武王の頃の伝説に二月は卯月で月干支甲子は十一月なので日干支や帝堯の月は何とも言えないが周代に現代で言う陰暦の一月から十二月があった、少なくとも冬至などの節気と朔日の干支を知っていたことが解る。
私と同じ計算で『日本書紀』を書いた人々が「辛酉年春正月庚辰朔」を導き出すにはグレゴリー暦を知っていて、1年365日で4年に一度の閏年が100年に1回抜け400年に一回抜かないことを知っていなければならない。
しかし、春秋戦国に書かれた『尚書 堯典』にも「咨 汝羲暨和 朞三百有六旬有六日 以閏月定四時成歲 允釐百工庶績咸熙」と「堯」が1年366日として、『尚書 舜典』に「十有一月朔巡守至于北岳如西禮 歸格于藝祖用特」と「舜」の時に月齢による暦をはじめ、『尚書 周書 武成』に「惟一月壬辰」と日干支が始まった伝説を残し、『尚書』内でその原則が守られ、「堯」以前に年を書かず、「舜」以前に何月と書かず、「武成」以前に日干支を書いていないが、以降の例は多数ある。
すなわち、紀元前660年の旧暦1月1日の干支が『日本書紀』作成時まで残っていた可能性があり、すでにこの頃には干支が日本に伝わり、使用していた集団は饒速日の妃御炊屋姫や義兄の長髓彦の先祖で神(辰)国の創始者の伝説の可能性がある。
建国の紀元前660年の「辛酉年春正月庚辰朔」より以前、紀元前666年の「乙卯年春三月甲寅朔己未」建国以前にも干支が同じようにあり、既に干支を使う勢力が初代王者以前に存在していたことも証明される。
8世紀の人々が紀元前658年・661年にも閏月が有るのに元旦の干支が解るということはこの年の夏至と冬至を計算でき12の中気が何時なのか、そして、グレゴリー暦が解らないと朔日の日干支を知ることは不可能なのだ。
因に一月朔日が庚辰の年は紀元前では660・634・603・510・293・267・200・169・143・76・19年で「辛酉年春正月庚辰朔」は紀元前700年から20世紀までに紀元前660年のみで、その前年の「庚申年秋八月癸丑朔戊辰」も紀元前661年と西暦420年しか存在せず全く不定期で偶然の一致は期待できない。
従って、欠史8代の天皇の即位記録の干支は何らかの形で残った記録の可能性が高く、神国の何らかの、例えば冬至の日干支や元旦の日干支の記録が残っていて、日本書紀はそれを使用して干支を付加していったと考えられ、これは『日本書紀』の長い在位期間が神国の宮の期間の可能性を表している。
「七十有六年春三月甲午朔甲辰 天皇崩于橿原宮 時年一百廿七歳」は政権を持った橿原宮(宮の名前は不明で便宜上の仮説、以下同じ)の統治期間が紀元前660年から76年間の紀元前585年までで、橿原宮は127年間続いたことを意味し、「卅三年夏五月 天皇不豫 癸酉崩 時年八十四」は高丘宮が出来て紀元前549までに33年間統治して宮は84年続いたことを意味する。

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