『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は『天皇本紀上』は「諱活目入彦五十狹茅尊者御間城入彦五十瓊殖天皇第三太子也母日皇后御間城入姬即大彦皇子命之女也天皇二十九年歳次壬子春正月己亥朔生於瑞籬宮生而有岐疑之姿及壯倜儻大度率性任真無(?所)矯餝天皇愛之引置左右二十四歳因夢祥立為皇太子焉六十八年冬十二月御間城入彦五十瓊殖天皇崩元年歳次壬辰春正月丁丑朔戊寅皇太子尊即天皇位尊皇后曰皇太后尊皇太后曰太皇太后二年春二月辛未朔己卯狹穗姬命立為皇后誕生譽津別命生而天皇愛之常在左右及壯而不言冬十月更都遷纏向謂珠城宮四年秋九月丙戌朔戊申皇后母兄狹穗彦玉謀反欲危社稷其記在別五年冬十月己卯朔狹穗彦與妹皇后共死于城中十五年春二月乙卯朔甲子喚丹波五女納於掖庭矣第一日葉酢媛次渟葉田瓊入媛次真頚野媛次薊瓊入姬次竹野媛並開化天皇兒彦坐皇子命子丹波道主王子也秋八月壬午朔日葉酢媛命為皇后復渟葉田瓊入媛真(?砥)野媛薊瓊入媛並爲皇妃唯竹野媛者因形姿醜返於本土則羞其見返到葛野地自輿墮死故号其地謂墮國今謂乙訓者訛矣皇后誕生五十瓊敷入彦命次大足彦尊次大中姬命次倭姬命次稚城瓊入彦命妃渟葉田瓊入媛生鐸石別命次膽香足姬命次妃真砥野媛生盤撞別命次稻別命次妃(?薊)瓊入媛生池速石別命次五十連石別命次五十日足彦命」、【諱は活目入彦五十狭茅で御間城入彦五十瓊殖の第三子、母は皇后の御間城入姫、大彦の娘だ。天皇二十九年歳次壬子春正月己亥朔生に、瑞籬宮で生まれ、生まれながらにしっかりとした姿で、若者になってからはとても度量があった。人のなりが正直で、まがったり飾ったりしなかった。父に可愛がられて、いつも側に置いた。二十四歳のとき、夢のお告げで、皇太子となった。六十八年の冬十二月、天皇が崩じた。元年歳次壬辰の春正月丁丑が朔の戊寅に、皇太子は天皇に即位した。皇后を皇太后と尊び、皇太后を尊んで大皇太后と呼んだ。二年春二月辛未が朔の己卯に、狭穂姫を皇后とした。皇后は、誉津別を生んだ。天皇は、誉津別を生まれたときから愛して、常に身辺に置いたが大きくなっても物を言わなかった。冬十月、さらに都を纏向珠城宮に遷した。四年秋九月丙戌が朔の戊申、皇后の同母兄の狭穂彦は、謀反を企てて国を傾けようとした。このことは別の書にある。五年冬十月己卯が朔、狭穂彦は妹の皇后とともに、城中で死んだ。・・・系図略】と訳した。
狭穂彦は甲斐国造の祖で開化天皇と丸迩臣の祖の意祁都比賣との子の日子坐王の子で、母は大闇見戸賣で、甲斐国造の祖は『舊事本紀』に「次大八椅命甲斐國造等祖彦與曽命之子」で倭得玉彦と大伊賀姫との子、倭得玉彦は建諸隅と葛󠄀木直の祖の大諸見足尼の娘との子で彦與曽が狭穂彦、倭得玉彦が坐王、建諸隅が開化天皇となり、丸迩臣の祖の日子國意祁都が大田田祢古で、倭得玉彦の母の父が大物主・建飯賀田須、建飯賀田須は大倭國民磯姫の子、和迩君の祖で、葛󠄀木直祖大諸見足尼と思われ、その葛城天皇の継承者の諸見巳姫が母だと考えられる。
まさしく、『古事記』の神武天皇が倭得玉彦で大物主の娘の伊須氣余理比賣が諸見巳姫と解る。
狭穂彦の母は『古事記』では春日建國勝戸賣の娘だが、勝戸賣は3代目大彦・大筒木垂根・大伊賀彦、その娘が大伊賀姫となり、武渟川別は大伊賀姫の兄弟で姪の沙本毘賣を妃にしたと考えられる。
狭穂彦の反乱は大彦・丸迩臣の祖の日子國夫玖対建波迩安王の反乱で勝った2代目大彦の品治部君の祖の湯産隅と大筒木垂根・建沼河別と品牟都和氣が川遊びをした一連の説話と考えられ、品牟都和氣が品治部君、大筒木垂根の母は山代縣主祖と考えられ、品遲部を定めたときの立役者の曙立王の祖母も山代の姫の苅幡戸辨で曙立王も伊勢、勿論伊勢遺跡の伊勢の品遲部君の祖となった。
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