2020年8月19日水曜日

最終兵器の目 推古天皇9

 『日本書紀』慶長版は

十八年春三月髙麗王貢上僧曇徵法定曇徵知五經且能作彩色及紙墨幷造碾磑蓋造碾磑始于是時歟秋七月新羅使人沙㖨部奈末竹世士與任那使人㖨部大舍首智買到于筑紫九月遣使召新羅任那使人冬十月已丑朔丙申新羅任那使人臻於京是日命額田部連比羅夫爲迎新羅客莊馬之長以膳臣大伴爲迎任那客莊馬之長即安置阿斗河邊館丁酉客等拜朝庭於是命秦造河勝土部連菟爲新羅導者以間人連鹽蓋阿閇臣大籠爲任那導者共引以自南門入之立于庭中時大伴咋連蘇我豊浦蝦兩臣坂本糠手臣阿倍鳥子臣共自位起之進伏于庭於是兩國客等各再拜以

奏使旨乃四大夫起進啓於大臣時大臣自位起立廳前而聽焉既而賜祿諸客有差乙巳饗使人等於朝以河內漢直贄爲新羅共食者錦織首久僧爲任那共食者辛亥客禮畢以歸焉十九年夏五月五日藥獦於菟田野取鶏鳴時集于藤原池上以會明乃往之粟田細目臣爲前部領額田部比羅夫連爲後部領是日諸臣服色皆隨冠色各著髻花則大德小德並用金大仁小仁用豹尾大禮以下用鳥尾秋八月新羅遣沙㖨部奈末北叱智任那遣習部大舍親智周智共朝貢

【十八年の春三月に、高麗の王が、僧の曇徴と法定を貢上した。曇徴は五経を知っていた。また上手に色をつけたり紙に墨で字を書き、一緒に水車を造った。おそらく、この時から水車が始まったのだろうか。秋七月に、新羅の使者の沙㖨部の奈末と竹世士が、任那の使者の㖨部の大舍の首の智買とが、筑紫にやってきた。九月に、使者を派遣して新羅と任那の使者を呼び寄せた。冬十月の朔が己丑の丙申の日に、新羅と任那の使者が、京に集まった。この日に、額田部の連の比羅夫に命令して、新羅の客を迎える儀礼の装飾をした馬の先導者にした。膳の臣の大伴を、

任那の客を迎える儀礼の装飾をした馬の先導者にした。それで阿斗の河邊の館に停めた。丁酉の日に、客達が、朝庭を礼拝した。そこで、秦の造の河勝と土部の連の菟に命じて、新羅の案内人とした。間人の連の鹽蓋と阿閉の臣の大篭を、任那の案内人にした。共に引率して南の門から入って、庭中に立った。その時に大伴の咋の連と蘇我の豊浦の蝦夷の臣と坂本の糠手の臣と阿倍の鳥子の臣が、共に指定席を立って、進め出て庭で頭をさげて座った。そこで、二国の客達は、各々2回頭を下げて、使い本旨を奏上した。それで四人の高官が、立ち上がって進み大臣に説明し、その時、大臣は、指定席から立ち上がって、執務する場の前に立って聞いた。それで夫々の客に贈り物を与えた。各々に差が有った。乙巳の日に、使者達を朝廷で饗応した。河内の漢の直の贄に新羅の饗応の接待をさせた。錦織の首の久僧に任那の饗応の接待をさせた。辛亥の日に、客達の儀式が終わって、帰った。十九年の夏五月の五日に、菟田野で薬草を探し取った。明け方に、藤原の池の上に集って。日が昇ったら出かけた。粟田の細目の臣を先頭に、額田部の比羅夫の連をしんがりにした。この日に、諸臣の着物は、皆、冠の色に揃えた。各々、かんざしを挿した。それで大徳と小徳は同じように金を用い、大仁と小仁は豹の尾を用い、大禮から下は鳥の尾を用いた。秋八月に、新羅は、沙㖨部の奈末の北叱智を派遣して、任那が、習部の大舍の親智周智を派遣して、共に朝貢した。】とあり、十月己丑朔は10月2日で9月が小の月なので、大の月なら標準陰暦と合致する。

十九年夏五月五日」と現代調の日付を記述しているが、後も20年の5月5日、22年5月5日で藥獵の記事で、欽明天皇十五年の「百濟遣下部杆率將軍三貴・・・奉勅貢易博士施徳王道良暦博士固徳王保孫醫博士奈率王有悛陀採藥師施徳潘量豊」のように藥師と一緒に暦博士が貢上されたから記述されたようで、これらの記事は贄子の記事の可能性が高い。

このような日付は『梁書』の武帝二年「今月十五日」と会話に出現し、『陳書』の高祖二年「今月五日」と文中で使われ、559年に成立した『魏書』の405年太祖天賜二年「夏四月庚申・・・六月・・・三十日罷」、444年世祖太平真君五年に「春正月壬寅・・・限今年二月十五日」と5世紀には使われ始め欽明天皇の頃には文字で文化人が知っていた。

ただし、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』に「明年正月廿二日上宮法皇枕病弗悆・・・二月廿一日癸酉」、『船王後墓誌』に「辛丑十二月三日庚寅」、『野中寺 銅造弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座の框』「丙寅年四月大旧八日癸卯」と新しい暦法を使用しており、技術者は新しい暦法を使っていたが記録には『船王後墓誌』に「辛丑十二月三日庚寅」のように書かれて史書に矛盾が現れるのを避けて使用しなかったのか、それとも、統一したのか。

『隅田八幡神社人物画像鏡』の「癸未年八月日十大王」は10日なら「八月十日」と書きここでは「人大王」のことである。

秦造河勝は皇極天皇三年に出現し、629年が元年の推古朝の647年で『三国史記』義慈王七年「冬十月將軍義直帥步騎三千進屯新羅茂山城下分兵攻甘勿·桐岑二城新羅將軍庾信親勵士卒决死而戰大破之義直匹馬而還」と百済の大敗に関して、後ろ盾の倭国日本と話し合いがあった可能性があるから蝦夷が出席したのであり、新羅側に俀国がいて、新羅を守ったのである。

そして、この朝貢は俀国への朝貢で、5月の行列は薬草狩りなどは俀国の戦勝行列で、粟田臣も白雉元年以降に登場し、天智天皇の配下で、推古天皇十一年の官位12階記事に「並以當色併縫之頂撮總如嚢而著縁焉唯元日著髻華」とあるが、すでに、608年の推古天皇十六年「裴世清・・・大伴囓連迎出・・・金髻華著頭亦衣服皆用錦紫繍織及五色綾羅」と髻華を挿し祝の行列に簪を挿す風習が現れていて、 この裴世清記事は631年の唐の来日の記述と思われる。

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