『日本書紀』慶長版は
「二十九年春二月已丑朔癸巳半夜厩戸豊聰耳皇子命薨于斑鳩宮是時諸王諸臣及天下百姓悉長老如失愛兒而塩酢之味在口不嘗少幼者如亡慈父母以哭泣之聲滿於行路乃耕夫止耕舂女不杵皆日月失輝天地既崩自今以後誰恃哉是月葬上宮太子於磯長陵當是時髙麗僧恵慈聞上宮皇太子薨以大悲之爲皇太子請僧而設齋仍親說經之日誓願曰於日本國有聖人曰上宮豊聰耳皇子固天欣縱以玄聖之德生日本之國苞貫三統纂先聖之宏猷恭敬三寶救黎元之厄是實大聖也今太子既薨之我雖異國心在斷金其獨生之有何益矣我以來年二月五日必死因以遇上宮
太子於淨土以共化衆生於是恵慈當于期日而死之是以時人之彼此共言其獨非上宮太子之聖恵慈亦聖也是歲新羅遣奈末伊彌買朝貢仍以表書奏使旨凢新羅上表蓋始起于此時歟」
【二十九年の春二月の朔が己丑の癸巳の日に、夜半になって廐戸の豐聰耳の皇子の命が、斑鳩の宮で薨じた。この時に、諸王と諸臣及び天下の百姓が、のこらず、長老が愛しい子を失ったように、塩や酢を口に入れても味が解らなかった。幼子は慈しんでくれる父母を亡った様で、泣き叫ぶ声が町中で聞こえた。それで耕す農夫は鋤を使うことを止め、うすで穀物をつく女にも杵の音は無かった。皆が「日月の輝を失って、天地が壊れてしまった。これからは誰に頼ればいいのか」と言った。この月に、上宮の太子を磯長の陵に葬った。この時に、高麗の僧の慧慈が、上宮の皇太子が薨じた聞いて、とても悲しんだ。皇太子の為に、僧に頼んで祭壇を設けて自分で経を説法した日に、誓い願って、「日本国に聖人がいた。上宮の豊聰耳の皇子という。とても天子がよろこんで引き連れて深く崇められる品性を持って日本の国に生まれた。天と地と人を包み込み通して、前の聖人の考えを受け継ぎ、佛と佛の教えと僧侶を礼儀正しく敬意を払って、庶民の災難を救った。これが本当の偉大な聖人だ。今、太子はもう薨じた。私は、国が違っても、心は金をも断ち切るほどのかたい友情がある(斷金:周易繫辭上「二人同心其利斷金」)。それなのに一人で生きていて何になる。私は来年の二月の五日にきっと死ぬだろう。それで上宮の太子と淨土で会って、共に生まれ代わって次の世でも生きたい」と言った。そして、慧慈は、約束した日になって死んだ。これで、当時の人は誰も彼もみんな、「上宮の太子一人が聖人ではない。慧慈も聖人だ」と言った。この歳、新羅が、奈末の伊彌買を派遣して朝貢した。それで上表文で使いの本旨を奏上した。おそらく、新羅が上表文を奏上したのはこれが初めてだ。」】とあり、標準陰暦と合致する。
この太子の死は『舊事本紀』の「廾九年春二月己丑朔癸巳夜半皇太子」と同じなのだから贄古の死去を述べているが、贄古は石上神宮の主だが元号に僧要があり、仏教の素養があるようで、慧慈が帰国したのは『上宮聖徳法王帝説』に「戊申始僧住」と648年から慧慈が寺に住みその後に帰国したのだから、651年死去なら符合する。
『日本書紀』と『上宮聖徳法王帝説』は『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』の上宮法皇を聖徳太子のこととしているが、上宮法皇は「辛巳十二月鬼前太后崩明年正月廿二日上宮法皇・・・二月廿一日癸酉王后即世翌日法皇登遐」と622年2月22日死亡で、『日本書紀』や『舊事本紀』の621年2月5日と一致せず、法皇は太子が出家した地位ではなく皇帝が出家した地位で、上宮法皇の母が太后で皇太后とは異なり、法皇の妻は王后で大王の后で天皇の后の皇后とは共に一段の地位の差がある。
そして、新羅の上表文は『三国史記』の611年眞平王三十三年「王遣使隋奉表請師隋煬帝許之 行兵事在高句麗紀」と隋の煬帝に提出しているので、法興帝の29年の619年の可能性が高く、新羅は俀国と同盟しているので、よく符合する。
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