2020年8月14日金曜日

最終兵器の目 推古天皇7

  今回も対唐外交の話なのでバラバラにできず、まとめて後に付加し、先に解説を記述する。

608年に『三国史記』武王九年に「春三月遣使入隋朝貢隋文林郞裴淸奉使倭國經我國南路」、推古16年608年4月の「裴世清・・・從妹子臣至於筑紫」と合致し、『隋書』に「大業三年其王多利思北孤遣使朝貢使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法」、「明年 上遣文林郎裴淸使於俀国・・・又至竹斯國又東至秦王國」と大業三年607年の上表文に怒って翌608年に裴淸を送り、筑紫と秦王國でどちらにも行っている。

そして、俀国は「此後遂絶」と国交断絶し、秦王国はこの項の内容通り、俀国に「自竹斯國以東皆附庸於俀」と思って隋の昔から朝貢していたという書簡に秦王国は隋朝貢などしていないので怒り、隋帝に秦王国へ朝貢しろと迫ったのであり、当然、俀国と同様国交を始めるはずが無い。

それに対して、『隋書』大業四年608年に裴淸と入れ違いに「三月辛酉・・・壬戌百濟倭赤土迦羅舍國並遣使貢方物」と倭が朝貢し、610年大業六年にも「己丑倭國遣使貢方物」と朝貢し、『舊唐書』に631年貞觀五年に「遣使獻方物太宗矜其道遠敕所司無令歲貢又遣新州刺史高表仁持節往撫之表仁無綏遠之才與王子爭禮不宣朝命而還」、舒明天皇五年「大唐客高表仁等歸國」がこの記事で日本国王になった倭国が秦王国と同じように高飛車になって外交を失敗したが、僧の行き来と朝鮮半島情勢もあって白雉元年「遣大唐使者持死三足烏來國人亦曰休祥斯等雖微尚謂祥物况復白雉」と白雉を送られ、『新唐書』に「改元曰白雉獻虎魄大如斗碼硇若五升器時新羅爲高麗百濟所暴高宗賜璽書令出兵援新羅」と訪日の背景が記述されている。

官位は秦王国・倭国では625年に制定したと述べているが、妹子の官位は俀国の官位で、俀国へ書簡が贈られたのだから、書簡を妹子は俀国王に提出して、秦王国王への書簡はおそらく表ではなく書簡で、百済で取られたと言っているのはおそらく百済の友好国倭国に取られたと思われ、また、隋も俀国の配下で倭国も秦王国も俀国の配下と考え、友好国は秦王国ではなく倭国に書簡を渡すよう妹子に指示していると思われるのだから妹子の行動は正当で、俀国の配下の妹子が秦王国王朝に罰せられるはずが無いのである。

629年即位の豊御食炊屋姫16年は644年で、この新羅人の帰化は『三国史記』の643年善德王十二年「秋九月遣使大唐上言高句麗百濟侵凌臣國 累遭攻襲數十城兩國連兵期之必取」と高句麗百濟に侵攻され数十城を責められて新羅人の難民が出たのだろう。

『日本書紀』慶長版は

秋七月戊申朔庚戌大禮小野臣妹子遣於大唐以鞍作福利爲通事是歲冬於倭國作髙市池藤原池肩岡池菅原池山背國掘大溝於栗隈且河內國作戸苅池依網池亦毎國置屯倉十六年夏四月小野臣妹子至自大唐々國号妹子臣曰蘇因髙即大唐使人裴世清下客十二人從妹子臣至於筑紫遣難波吉士雄成召大唐客裴世清等爲唐客更造新館於難波髙麗館之上六月壬寅朔丙辰客等泊于難波津是日以飾舩三十艘迎客等于江口安置新館於是以中臣宮地連磨呂大河內直糠手舩史王平爲掌客爰妹子臣奏之曰臣參還之時唐帝以書授臣然經過百濟國之日百濟人探以掠取是以不得上於是群臣議之曰夫使人雖死之不失旨是使矣何怠之失大國之書哉則坐流刑時天皇勅之曰妹子雖有失書之罪輙不可罪其大國客等聞之亦不良乃赦之不坐也秋八月辛丑朔癸卯唐客入京是日遣飾騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢額田部連比羅夫以告禮辭焉壬子召唐客於朝庭令奏使旨時阿倍鳥臣物部依網連抱二人爲客之導者也於是大唐之國信物置於庭中時使主裴世清親持書兩度再拜言上使旨而立之其書曰皇帝問倭皇使人長吏大禮蘇因髙等至具懷朕欽承寶命臨仰區宇思弘德化覃被含靈愛育之情無隔遐邇知皇命居海表撫寧民庶境內安樂風俗融和深氣至誠遠脩朝貢丹款之美朕有嘉焉稱暄比如常也故遣鴻臚寺掌客裴世清等稍宣往意幷送物如別時阿倍臣出進以受其書而進行大伴囓連迎出承書置於大門前机上而奏之事畢而退焉是時皇子諸王諸臣悉以金髻華著頭亦衣服皆用錦紫繡織及五色綾羅丙辰饗唐客等於朝九月辛未朔乙亥饗客等於難波大郡辛巳唐客裴世清罷歸則復以小野妹子臣爲大使吉士雄成爲小使福利爲通事副于唐客而遺之爰天皇聘唐帝其辭曰東天皇敬白西皇帝使人鴻臚寺掌客裴世清等至久憶方解季秋薄冷尊何如想清悆此即如常今遣大禮蘇因髙大禮乎那利等往謹白不具是時遣於唐國學生倭漢直福因奈羅譯語惠明髙向漢人玄理新漢人大圀學問僧新漢人日文南淵漢人請安志賀漢人恵隱漢人廣濟等幷八人也是歲新羅人多化來

【秋七月の朔が戊甲の庚戌の日に、大禮の小野の臣の妹子を大唐に派遣した。鞍作の福利に通訳させた。この歳の冬に、倭国に、高市の池と藤原の池と肩岡の池と菅原の池作った。山背の国に、用水を栗隈に堀った。また河内の国に、戸苅の池と依網の池を作った。また国毎に屯倉を置いた。十六年の夏四月に、小野の臣の妹子が大唐から帰った。唐国は、妹子臣を蘇因高と名付けた。それで大唐の使者の裴世清と下客十二人が、妹子臣について、筑紫に着いた。難波の吉士の雄成を派遣して、大唐の客の裴世清達を呼んだ。唐の客の為に、また新たな館を難波の高麗館の上に造った。六月の朔が壬寅の丙辰の日に、客達は、難波津に停泊した。この日に、客を迎える船三十艘で、客達を江口に迎えて、新たな館に案内した。そこで、中臣の宮地の連の烏摩呂と大河内の直の糠手と船史の王平に接待させた。そこで妹子臣は、「私が、帝に参内し帰る時に、唐の皇帝は、書面で私に授けた。しかし百済国を通り過ぎた日に、百済人が、探し盗ったので献上できません」と奏上した。そこで、役人が、「使者という者は死んでも、大事な物をなくさない。この使者は、どう怠ったのか、大国の書簡を失った」と話し合って言った。それで流刑となった。その時に天皇は、「妹子が、書簡を失った罪が有っても、簡単に罰してはいけない。あの大国の客達から経緯を聞くのも良くない」と詔勅した。それで赦して罰しなかった。秋八月の朔が辛丑の癸卯の日に、唐の客が、京に入った。この日に、客のために飾った馬七十五匹を派遣して、唐の客を海石榴市の儀礼の場に迎えた。額田部の連の比羅夫が、歓迎の儀礼の言葉を述べた。壬子の日に、唐の客を朝庭に召いて、使者の趣旨を奏上させた。そ時に阿倍の鳥の臣と物部の依網の連が腕を回して、二人が、客を導いた。そこに、大唐の国の印の物を朝庭の中に置いた。その時に使者の主の裴世清が、自ら書簡を持って、二回頭を下げて、使い主旨を言上して立った。その書簡に、「皇帝が、倭皇に聞きたい。使者の長官の官吏の大禮の蘇因高達が、やって来て胸の内を詳しく述べた。私は、神から天子になれとの命令を悦んで承諾して、天地四方の区切りに立って言いつけに対している。徳によって教化しようと思って、心ある者に支えられ、かわいがって育てる気持ちが人を遠ざけない。皇は、海の外に居て、世の中の人々をいたわり癒して、国内は苦痛や苦労がなく、生活の有様はうちとけて仲よく、強い心構えで偽りが無く、遠い昔から朝貢しまごころがあって見事に私を喜ばせ、心温まるのはいつもの事だ。それで、鴻臚寺の掌客の裴世清達を派遣して、すこし訪問した意味を述べる。あわせて特別な贈り物がある」とあった。その時に阿倍の臣が進み出て、その書簡を受け取る天皇のほうに進んで行った。大伴の囓の連が、迎え出て書簡を受け取って、天皇の前の机の上に置いて奏上した。書簡を置いたので退席します。この時、皇子と諸王と役人は、残らず金のかんざしを頭に挿していた。また衣服に皆、錦色や紫色の糸を縫い込んで織った着物と、五色の薄い絹を用いた着物を着た。丙辰の日に、唐の客達を朝廷で饗応した。九月の朔が辛未の乙亥の日に、客達を難波の大郡で饗応した。辛巳の日に、唐の客人の裴世清が帰った。それでまた、小野の妹子臣を大使にした。吉士の雄成を小使にした。福利を通訳にした。唐の客人につけて派遣した。そこで天皇は、唐の皇帝を招聘した。「東の天皇が、つつしんで西の皇帝にもうします。使者の鴻臚寺の接待役の裴世清達がやって来て、昔からの思いが解った。季節は秋になって、すこし涼しくなり尊い貴殿は、いかがでしょうか。清々しく楽しみたいと思うのはいつもの事です。今、大礼の蘇因高と大礼の乎那利達を派遣していかせました。つつしんで申します。不具(修辞)」と申し渡した。この時、学生の倭漢の直の福因と奈羅の通訳の惠明と高向の漢人の玄理と新の漢人の大圀と、学問僧の新の漢人の日文と南淵の漢人の請安と志賀の漢人の慧隱と新の漢人の廣濟達、併せて八人を唐の国に派遣した。この歳に、新羅人が多く帰化した。】とあり、標準陰暦と合致する。

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