『日本書紀』慶長版は
「二十一年冬十一月作掖上池畝傍池和珥池又自難波至京置大道十二月庚午朔皇太子遊行於片岡時飢者臥道垂仍問姓名而不言皇太子視之與飲食即脱衣裳覆飢者而言安臥也則歌之曰斯那提流箇多烏箇夜摩爾伊比爾惠弖許夜勢屢諸能多比等阿波禮於夜那斯爾那禮奈理雞迷夜佐湏陀氣能枳弥波夜那祗伊比爾惠弖許夜勢留諸能多比等阿波禮辛未皇太子遣使令視飢者使者還來之曰飢者既死爰皇太子大悲之則因以葬埋於當處墓固封也數日之後皇太子召近習先者謂之曰先日臥于道飢者其非凢人爲必真人也遣使令視於是使者還來之曰到於墓所而
視之封埋勿動乃開以見屍骨既空唯衣服疊置棺上於是皇太子復返使者令取其衣如常且服矣時人大異之曰聖之知聖其實哉逾惶二十二年夏五月五日藥獦也六月丁卯朔已卯遣犬上君御田鍬矢田部造(闕名)於大唐秋八月大臣臥病爲大臣而男女幷一千人出家二十三年秋九月犬上君御田鍬矢田部造至自大唐百濟使則從犬上君而來朝十一月巳丑朔庚寅饗百濟客癸卯髙麗僧恵慈歸于國」
【二十一年の冬十一月に、掖上の池と畝傍の池と和珥の池を作った。また難波から京に至るまでの大道を作った。十二月の庚午が朔の日に、皇太子が片岡に行脚した。その時に飢えた者が、
道の辺鄙な所に俯せになっていた。それで姓名を問いただした。しかし言わなかった。皇太子は、それを見て飲食を与えた。それで衣裳を脱いで、飢えた者を覆って、「安らかに休め」と言った。それで歌った(略)辛未の日に、皇太子は、使者を派遣して飢えた者のその後を調べさせた。
使者は帰って来て、「飢えた者はもう死んだ」と言った。そこで皇太子は、とても悲しんだ。そのためそこに葬り墓を突き固めた。数日後に、皇太子は、傍に学問を習っている者を呼んで、「先日、道に倒れて飢えた者は、普通の人ではない。きっと仙人にちがいない」と言って、使者を派遣して調べさせた。そこで、使者が、帰って来て、「墓にいってみたら、突き固めて埋めた所に変化が無かった。それで開いてみたら、遺骸は無かった。ただ衣服だけたたんで棺の上に置かれていた」と言った。そこで、皇太子は、また使者を引き返させて、その衣を取ってこさせた。いつものように変わらずに着てみた。当時の人はとても奇妙に思って、「聖人は聖人を知るというのは、本当のことだ」と言って、ますます尊敬された。二十二年の夏五月の五日に、薬草探しをした。六月の朔が丁卯の己卯の日に、犬上の君の御田鍬と矢田部の造を大唐に派遣した。秋八月に、大臣が、病に臥った。大臣の為に、男女併せて千人が、出家した。二十三年の秋九月に、犬上の君の御田鍬と矢田部の造が、大唐から帰った。百済の使者が、それで犬上の君に従って、来朝した。十一月の朔が己丑の庚寅の日に、百済の客を饗応した。癸卯の日に、高麗の僧の慧慈が国に帰った。】とあり、標準陰暦と合致する。
犬上君は舒明天皇二年に「以大仁犬上君三田耜大仁藥師惠日遣於大唐・・・庚子饗高麗百濟客於朝・・・三年春二月辛卯朔庚子掖玖人歸化」と記述され、俀国の位大仁の官位を持ってすなわち、俀国の記事に出ているのだから、俀国が唐に遣使を出し、高句麗と百済が来日した629年即位の推古天皇の23年651年の記事と思われ、651年が舒明2年にあたる650年即位の舒明天皇に割り当てた俀国王が存在することを示している。
惠慈は推古天皇三年「高麗僧惠慈歸化則皇太子師之」、推古天皇四年「惠慈惠二僧始住於法興寺」、推古天皇二三年「高麗僧惠慈歸于國」と『日本書紀』に記述されるが、法興寺の建立は629年頃以降で、『上宮聖徳法王帝説』裏書に「注云辛丑年始平地癸卯年立金堂之戊申始僧住」と641年に建立のため土地を整備して、643年に金堂が建ち、648年から僧が住んだと記述し、「己酉年三月廿五日大臣遇害」と649年に大臣に害が及んだと記述され大化五年「三月乙巳朔辛酉阿倍大臣薨」と『日本書紀』にも大臣薨去が記されている。
「庚戌春三月學問尼善信等自百済還住櫻井寺」が650年ならこの時の学問僧が持統五年「書博士百濟末士善信銀人廿両」と691年に褒美をもらっても年齢的に650年10代なら691年は50代で全く矛盾が無く、従って、 推古天皇二三年の惠慈帰国は629年即位の推古天皇で、651年に帰国していて、聖徳太子とは無関係である。
『日本書紀』の推古・舒明紀を記述する時656年に完成した『隋書』、622年以降に造られた『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』、もしかしたら、667年に奉納された『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』をみて記述し、それを見て、『上宮聖徳法王帝説』を記述しており、『日本書紀』と同じで当然で、違うところに真実が隠されていると考えるべきだ。
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